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第2回 36年夏の弱い巨人VS 6球団のがんばり

 

東京セネタースがプロの「強いチーム」第1号

 7球団が出そろったプロ野球は、いよいよ1936年に公式戦をスタートさせた。と言っても、いまのようなフランチャイズがきっちり決まっていて、シーズンの試合スケジュールに従ってペナントレースが進む、というようなものではなかった。

 とにかくファンに職業野球というものを認知してもらうために、全球団が1球場に集結した小さな総当たりの大会(トーナメントもあった)を何度か東西で開いて具合を見よう、ということになった。

 で、その全球団集結の第1回日本職業野球連盟試合大阪大会は、4月29日から甲子園球場で行われることになった。以後、ナゴヤ、宝塚、東京……という順に同様な大会を開催する予定だった。甲子園に集結した球団名を結成の早い順に紹介すると、大阪タイガース、名古屋、東京セネタース、阪急、大東京、そして名古屋金鯱の6球団。ン?プロ野球は7球団でスタートしたのではなかったか?

 その通り。残りの1球団、東京巨人(ジャイアンツ)は、第2回渡米遠征中で、帰国は6月5日の予定。結局、巨人の参加は7月1日からの東京大会(早大・戸塚球場)からとなる。ついでながら、巨人は、戦後の53年も公式戦に間に合わなかったことを書いておこう。米国カリフォルニア州でのサンタマリア・キャンプを行った巨人は、帰国が4月になり、セ・リーグの開幕(3月28日)に大幅に遅れることになった。帰国第1戦は4月10日。巨人は、この年他チームより5試合少ないペナントレースとなったのだが、2位に16ゲーム差をつけてのV3。これでは他チームは文句も言えなかった。しかし、36年の帰米チームは、そうはいかなかった。

 それはのちに触れるとして、甲子園の大阪大会に戻る。ここでは、1回総当たりで各チーム5試合。セネタースが4勝1敗で優勝した。セネタースは、競馬の有馬記念にその名を残す有馬頼寧がオーナーのチーム。有馬が貴族院議員だったのと、アメリカのワシントン・セネタース(上院議員たちの意)に引っかけて東京セネタースとなったものだ。しかし、選手として著名なのは・・・

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