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「対決」で振り返るプロ野球80年史

第18回 典型的中小私鉄(阪神) vs 規模日本一、大阪南部押さえる私鉄(近鉄、阪急、南海)

 

59年の阪急はたった19万人!球史に残る選手が多かったのになぜだ?


 もう、かなり以前のことだが、夏の夜、神戸・六甲の山に登ると、はるか眼下に甲子園球場と西宮球場の照明塔が輝いているのが見えた(もちろん、阪神と阪急の試合が同時に行われているのが条件であるが)。これは、なかなかいい夜景だった。

 しかし、夜目、遠目、笠の内──。甲子園の方はともかく、西宮の方は、その美しい照明の下には、夏なのに寒々しい光景が広がっていた(下の写真をご覧ください)。この連載は、1950年代後半まで進んだが、阪急の不入りは、変なたとえになるが「病膏肓に入る」状態だった。59年、5位に沈んだ阪急の本拠地球場入場者数は19万3839人だった。ひとケタ間違っている?いや、いや。主催67試合やっても、20万人も入らなかったのです。1試合平均わずか2900人!なぜこれほど不人気だったのか。梶本隆夫米田哲也、バルボン、中田昌宏河野旭輝と球史に残る選手がそろっていたのだから、どうにも合点がいかない。

西宮球場でのナイター。「ナンボ、ナンでも、これは…」の光景だろう


 この年に入団した矢野清(68年、突如27本塁打して“10年目の新人”と話題になった。のちオリックス球団本部長)に「9年間、ほとんど二軍暮らしだったけど、つらさなんかまったくなかった。二軍の宿舎は、阪急電鉄の社員寮だったとかで住むには快適。食事には牛肉がよく出たし、二軍の食事に牛肉なんてのは阪急だけでしょう」という話を聞いたことがあるが、阪急の選手は、ハングリー精神とは無縁の環境でノンビリと野球をやっていたのか? このノンビリがプレーにも出て、ファンもあまり感情移入できなかったのか?

 不人気では・・・

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「対決」で振り返るプロ野球80年史

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