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「野球つく」の世界に甲子園の大ヒーローが登場! 5季連続で大フィーバーを巻き起こした荒木大輔氏と、“やまびこ打線”の中核を担い夏春連覇を飾った水野雄仁氏。1982年夏の準々決勝で激突した両者に、当時の秘話から野球には避けられないケガのお話などをお話しいただいた。

もう少しで野球が大嫌いになるところだった、伝説の池田戦




――「プロ野球チームをつくろう!」を見ていただきましたが、いかがでしたか。

荒木 リアルですね。育成ができたり、コストがあるのが面白い。

――コスト上限があることで、強い選手だけでチーム編成をすることはできません。サラリーキャップと同じとお考えいただければと思います。

荒木 本当に野球が好きなファンは、ファームの時点で選手に目を付けて、その選手が成長して一軍で活躍するのがとてもうれしいじゃないですか。その感覚に近い。

水野 名選手のことも育てられるわけですから、例えば杉内(俊哉)をストレートが145キロ出せるようにしたら、誰も打てなくなるんじゃないですか? あれだけのスライダーもあるのだし。あるいは澤村(拓一)に制球力をアップさせたり。

――ユーザーによってどのパラメーターを上げるかも違いますからね。

水野 とても多くの人がプレイしている中で、使っている選手は同じでも、違う持ち味が出せるわけですね。

――しかも好不調の波もありますので、100パーセント同じということはまずありません。チームカラーの発動があったり、細かいデータがこの中に詰まっています。

荒木 ある意味ではスコアラーが付けるデータより詳細な部分もあるかもしれませんね。

水野 今後、野球に詳しい方が編成したチームと、ペナントで優勝とかいい成績を残した人だけが闘えるなどがあっても面白いですね。

荒木 野村(克也)さんのID野球チームとかね。そう簡単には勝てない相手に挑戦できる。

――ありがとうございます。是非、参考にさせていただきます。さて今回、お二方にお集まりいただきましたので、まずはやはり甲子園のことからうかがいたいと思います。

水野 荒木さんが1年生のとき、横浜に決勝で負けたじゃないですか。当時、僕は中学3年生で、弱いチームだったんですがトレーニングをして140キロは投げていたんです。

――すごいですね!

水野 荒木さんの活躍を見て「自分も1年生からエースになっちゃう」と思って、徳島で一番いい投手がいる学校に進もうと決めたんです。それが畠山(準)さんがいた池田です。というのも僕は打者になりたかった。畠山さんも5回連続甲子園に行けると言われていたのに、結局は1982年の夏だけでしたからね。理不尽なものだなと思っていました。

――それがついに出場したときは……。

水野 先輩たちは甲子園に5回行けると思っていたのに一度も行けなかったから、もう春先の練習から悲壮感が漂っていたんです。いい選手ばかりなのに試合でも打てないし。それが県予選を何とか勝ち抜いたとたん、すごく打つようになった。何かに解放されたかのようになり、甲子園でもね。だからかなり行けるんじゃないかなという気にはなっていたんです。でも先輩たちは1回勝ったから、もういつ帰ってもいいと(笑)。

――しかし勝ち進み、第64回全国高校野球選手権大会の準々決勝で荒木さんの早稲田実業との対戦が決まりました。このときの池田サイドの雰囲気はいかがでしたか?

水野 先輩たちはみんな、お土産とか買いに行ってましたからね(笑)。だけど僕と江上(光治。3年時は主将。その後、早稲田大、日本生命)は負けたらすぐ新チームの練習が始まるじゃないですか、キツい練習が。だったら蔦(文也)監督も怒らないし、1日でも長く甲子園にいたかったんですよ。

――2年生には切実ですね(笑)。

水野 だから江上とも「明日打つぞ」と。そうしたらもう、奇跡ですよ。初回に江上がいきなり2ラン。荒木さんのカーブをあんなふうに打つなんて! いいコースでしたしね。

荒木 いや、この前ある企画で一緒に試合のVTR見たじゃない。そうしたら思ったより良くなかった。あのとき捕手をしていた松本(達夫)がいまは日本テレビにいるんですけど、彼が「あの球を打たれたら仕方ない」と言うのでそう思っていたんですけどね。実際にVTRを見たら、なんとなくいいところに来てはいるかなぐらい(笑)。



水野 当時、カーブが得意だったんですよね?

荒木 うん、そう。

水野 そうなるとやはり、以降は追い込んでから決め球に使うのにためらいは出ますよね。初回でしたし。

――あれだけ打ち込まれた経験というのは……。

荒木 初めてでしたね、野球を始めてから。もう少しで野球が大嫌いになるところでした(笑)。

水野 荒木さん、5回甲子園に出て、5回負けているわけじゃないですか。勝ち星は……。

荒木 12勝。

水野 僕も桑田が引退してから、甲子園の取材を受けることが増えたんです。というのは翌年夏に、KKのPL学園に負けていますからね(準決勝で0対7)。つまり今回とは逆の立場です。ここでは勝った試合だから気分がいいけど、あっちでは負けた試合は悔しいじゃないですか。そう考えると荒木さんは毎回、負けた試合を振り返らないといけない(笑)。

荒木 そう言われればそうだ(苦笑)。

水野 勝った試合でこれ、というのはあるんですか?

荒木 勝った試合について取材されることはないなぁ。甲子園の話はだいたい一つの試合を取り上げて、名勝負という形だからね。そうなると、優勝していないから結果的にそうなる。

水野 僕もPLとの試合はボコボコに打たれたことぐらいしか覚えていない。でも、野球の神様、甲子園の神様というのはすごいですよ。荒木さんが3年続けて甲子園を沸かせて、その荒木さんに勝った池田が翌年は主役になり、その池田をKKのPLが破るわけじゃないですか。他のチームに負けるんじゃない、ちゃんとそういう相手に負けるってすごい流れだと思うんですよ。

――だからいまなお、語り継がれるのでしょうね。

水野 前に江川(卓)さんの時代のVTRを見て思ったのは、木製バットだったらもう少し抑えられたかなという気はしましたね。まぁ僕らが金属バット全盛で打ちまくったわけですが(笑)。

荒木 甲子園の後の全日本で、池田のバットを2〜3本もらって帰ったんですよ。それを後輩たちに「これで池田のように打てるぞ」って渡して(笑)。

水野 音からして違いますからね。

荒木 「聞いてみろよ、この音!」って(笑)。

水野 数年後には禁止になりましたからね、あのバット。ゴルフで禁止されているクラブもそうなんですが、薄いんですよね。極端に言うと、一発打ったらひびが入るぐらい。そのほうが高反発で飛ぶんです。メーカーもひび割れたら取り替えてくれてましたから。実際あのメーカー、100倍から1000倍は売れたんじゃないですか? 翌年は甲子園に出てくるほぼすべての学校があのバットを使っていましたよ。

荒木 僕らは対戦して、音の違いは分かっていましたけど、それでも彼らの身体つきを見たら「そりゃ飛ぶだろう」とは思いましたけどね。とにかくそろいもそろってがっちりしていたし。

水野 でも、87年のPLは立浪(和義)、片岡(篤史)、野村(弘樹)、橋本(清)と4人もプロに出しましたが、あのときの池田からは畠山さんと僕の2人だけ。ウェイトトレーニングで鍛えてはいましたが、結局は金属用のバッティングだったんです。江上も大学で木製なったら思ったように打てなくて。だから“やまびこ打線”でプロで大成した人は少ないんですよ。



――水野さんはプロでは打者というお気持ちはありませんでしたか?

水野 王(貞治)さんも柴田(勲)さんも、甲子園では投手でプロでは打者に転向したじゃないですか。だから自分も当然、打者だと思っていたんです。だって、僕の甲子園での通算成績、69打数34安打ですよ。

――荒木さんもとんでもない一発を打たれましたし。

荒木 センターの岩田(雅之)がライナーだと思って一度目を切ったら、次にはもうはるか上を越されてたっていう当たりでした。



甲子園で試合に勝って、母校の校歌を初めて聴いたときの感慨


――そういえば、あの早実戦が水野さんにとって初の甲子園マウンドでもありました。

水野 8回先頭打者の2ボールナッシングでマウンドに上がり、ボール2球で歩かせた。次の打者はカウント1-1かな。それでまた交代。

――はい。実際、4球投げていますが、記録上は対戦打者ゼロです。※野球規則10・16(h)による。

荒木 何でそんなことになったの? 何しに行ったの?(笑)

水野 蔦さんが畠山さんにお灸をすえたんだと思います。大きくリードしているのに先頭打者歩かせたりとかピリッとしなくて。だからブルペンもやってないですもん。急に交代と言われ、レフトから行ったぐらいですから。

――それまで試合で投げることは?

水野 予選まではよく投げていましたよ。畠山さんもヒジや肩の調子が悪かったので。僕のほうがコントロールも良かったので、もしかしたら背番号も1をもらえるんじゃないかと思ったぐらい。実際は畠山さんがエースナンバーになりましたけどね。

――そういう事情があったのですね。

水野 ですから大会後に全日本に参加したときは、打撃投手なども務めましたからね。ただやはり、打撃のほうがという思いはありました。練習試合を入れたら、6割打っているんじゃないかな。池田はいい加減だったから、練習試合とかスコア付けてないんです。だから通算本塁打とか知らないですもん(笑)。

――おおらかですね。その池田高も今年、選抜に27年ぶりの出場を果たしました。

水野 それで僕も甲子園に応援に行ったんです。本当はアルプスで見たかったんですが、騒ぎになるからって行かせてくれなくて。でも、先輩や後輩が来ているのにネット裏で見ているなんて申し訳ないから、5回にアルプス席に移ったんです。それでもやっぱり囲まれちゃって戻ったんですけどね。試合に勝って、校歌を聴いたら何とも言えない気分で。自分の学校の校歌を甲子園で聴くって、悪くないなと思いましたよ。

荒木 僕はそういう機会がなかったんですよね。自分が取材に行ける時期には早実が出ていなくて、出るときは現場にいたから行けませんでしたし。

水野 意外とタイミング合わないんですよね。

荒木 でもその池田の試合、僕もちょうどいたんですが、池田人気がすごかったんですよ。球場全体が池田一色でした。お客さんみんなが池田の校歌を歌っているってすごいことだなと。OBでもないのに。

水野 前に池田の校歌がカラオケにあって、いろんなところで歌われたことありますよ(笑)。

荒木 すごいことだよね。甲子園球場にある歴史館で蔦監督のユニフォームが飾ってあって、その前からはちょっと離れられなかった。あとはPLのユニフォーム。他にも名門校のがあったんだけど、池田とPLだけは別物だった。

水野 そういう名門の中で、今後復活が期待できるのは早実ぐらいかもしれませんよ。PLもなかなか厳しい。大阪桐蔭の時代になってしまうのかも……。時代とともに学校がなくなったり、校名が変わったりするのも寂しいことだと思いますが、やっぱり古豪と呼ばれる学校の復活には期待したいですよね。

――さて、甲子園というともう一つ、夏の暑さとの戦いや連投などが問題になりますね。実際、軟式でしたが全国大会準決勝で、中京vs崇徳戦が延長50回になりました。

荒木 僕はタイブレーク導入には賛成派なんです。それぐらい、肩の酷使は制限してあげなくてはならないと思っています。今年、ある高校生投手を見に行ったんです。彼はとてもいい投手だったんですがケガをしましてね。現在の状態を見たんですが、以前とは比べものにならない姿でした。それで改めてその思いを強くしましたね。最後は大人が守ってあげなくちゃいけない、ルールとして。

――そうですね。

荒木 投手としてプロに行きたいから、試合に投げたくないって子がいる。肩やヒジを壊したくないからと。僕はそういう子がいちゃいけないと思うんです。ダルビッシュの言うように1年、2年、3年生でそれぞれ制限を設けるのも一つだろうし、個人的にはそう考えています。当然、異論はあると思いますけどね。面白いかどうかと言えば、当然、延長や再試合があるほうが良いのでしょうが。

――実際、都市対抗など社会人野球でもタイブレークが導入されていますし、WBCも第2回から採用されました。ただ、選手の立場だとそのままやりたいんでしょうが。

荒木 やりたいし、実際にやっているときは大丈夫なんですよ。ランナーズハイじゃないですが、いくらでも投げられる。

水野 だから板東(英二)さんや太田(幸司)さん、佑ちゃん(斎藤佑樹)などみんな、それで盛り上がったんですよね。

荒木 前に太田さんとお話をしたとき、延長に入ってからのほうが身体が元気になる、余分な力が抜けて、いくらでも投げられるんだと仰っていました。僕らにはその経験がないから分からないんですけどね。それと太田さんは延長18回終了で再試合になるというルールを知らなくて、決着がつくまで投げ続けるものだと思っていたそうです。

――ケガはプロでも避けては通れない部分がありますね。

荒木 ただ、プロの場合はちょっと意味合いが違うと思うんです。もちろんプロならケガをしていいとは言いませんし、指導者としてケガから守ろうと努力もしています。しかし、実際にケガしてしまったら、割り切らねばならない部分もある。彼らもそうやって投げなければ年俸も上がらないわけですし。



水野 高校生の場合はまだ身体ができていないわけですからね。成長の個人差だってあるわけですし。そこがプロとは一番違う部分であり、守ってあげなくちゃいけない部分です。

――その一方で、水野さんと同学年の山本昌投手が最年長勝利記録を更新したりもしています。

水野 それだけスポーツ医学が発達したわけです。僕は19歳で肩を壊し、27歳でヒジを壊してアメリカに行きました。そのとき、日本人のお医者さんも同行されて、治療の仕方を見て学んできたんです。それぐらいアメリカと日本ではスポーツ医学に差があったのが、この10年ほどでやっと追いついたんです。

――確かにそうですね。

水野 あとはトレーニング。我々の頃はプロのOBが務めていた役職でしたが、近年では専門職の方がコーチになりましたよね。高校野球にまでそういうトレーニング・コーチが浸透するには、やはりまだ10年や20年はかかるでしょうね



荒木 僕らの時代も、ケアと言ったらただ休む。オフも練習をやりたくなるまで休む。

水野 ケアのやり方も知りませんでしたからね。でもいまのプロ選手たちは休まないでしょう。オフの間もトレーニングをしていますから。そこが一番の違いかもしれませんね。





PROFILE
あらき・だいすけ◎1964年5月6日、東京都調布市出身。80年夏、1年生ながら甲子園に出場し準優勝。春夏5季連続で甲子園に出場し、17試合で12勝5敗、防御率1.72。83年ドラフト1位でヤクルトに入団し、86、87年には開幕投手を務めた。96年に横浜へ移籍し、その年限りで現役引退。通算成績は180試合で39勝49敗2セーブ、防御率4.80。04年から07年まで西武、08年から昨年までヤクルトでコーチを務めた。

PROFILE
みずの・かつひと◎1965年9月3日、徳島県阿南市出身。池田高2年の82年夏、五番・左翼で甲子園で優勝。エースとなった翌春の選抜も制し、夏はベスト4に勝ち進んだ。84年ドラフト1位で巨人に入団し、3年目の86年に8勝。翌年は10勝し優勝に貢献。以降は先発、中継ぎ、抑えと活躍した。96年限りで現役引退。通算成績は265試合に登板し39勝29敗17セーブ、防御率3.10。99年から3年間は巨人でコーチを務めた。

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