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1980年限りで世界のホームラン王・王貞治選手が引退。巨人軍はONのあとの、新たな時代を迎えようとしていた。そんな時期に、巨人では驚くほど多くの高卒選手が次々と台頭している。中でも槙原寛己投手を加えた「50番トリオ」として話題を呼んだのが、駒田徳広氏と吉村禎章氏だ。ともに左投げ左打ちの両者は、どのようにして巨人の中でレギュラーへと成長していったのか。今回は特にその成長期にテーマを絞り、お話をうかがった。

一軍と二軍はすべての環境が違うと感じ、必ずまた戻ろうと誓った




――お二方が実際にチームを作るとすると、どんなチームにしてみたいですか?

駒田 僕はおおざっぱなチームにしようと思います。攻撃型で、負けてもいいから面白い野球をするチーム。細かいプレーばかりをせず、ストレスがたまらないチーム。

吉村 僕はスペシャリストを育てたい。本塁打でも盗塁でも、たくさんのユーザーがいる中で一番になれるような選手。投手も平均的に良いというより、とにかく球が速いとかね。これまで対戦型の野球ゲームは多くありましたが、ユーザーの個性、理想を追求できるゲームというのは、野球ファンにはたまらないでしょう。

――OBの皆さんがいまの選手と対戦できるのも楽しみの一つです。お二方はどんな投手と対戦したいですか?

駒田 大谷(翔平)って答えたら面白くないですよね(笑)。そりゃあ彼相手に打席に立ちたいけど。僕は左打者でしたから、いまの左投手のボールが打席からはどんな風に見えるのか興味ありますね。たとえば巨人の山口(鉄也)とか。自分の能力が彼に通用するのか、試してみたいです。

吉村 OBの投手も出てくるんですよね? であれば、僕が真剣勝負をしたことがないのは巨人の投手たち。全盛期の江川(卓)さんと対戦とか、夢が広がりますね。

――実際、江川さんだけでなく、堀内恒夫さんや槙原寛己さんなど往年のジャイアンツの名投手も登場します。ではお二方を再現する場合、特にここはこだわりたいという部分はありますか?

駒田 やはり勝負強さでしょう。

吉村 僕も同じですね。

――好打力、長打力なども重要ですが、そうなると「精神力」というパラメーターになりますね。ぜひ、お二方が登場された暁には、ユーザーの皆さんにも精神力のスキルを貼ってほしいと思います。さて、ここからはお二方の現役当時のお話をうかがっていきたいと思います。駒田さんは81年、吉村さんは翌82年に巨人に高卒ルーキーとして入団されましたが、入団時の自信はどの程度のものでしたか?

駒田 僕はまぁ何とかできるんじゃないかと思っていましたね。まったくそうはいかなかったですけど(笑)。

吉村 正直、あまり自信はなかったです。大学に進学するつもりでしたから、大学でもう一つ力をつけて、それで行ければプロへと考えていました。

――プロではまずどこを磨こうと考えられたのですか?

駒田 打つことだけですね。守備のことなんて考えてもいない、いい加減な考え方ですけどね。吉村と僕と絶対的に違うのは、彼はPL時代に甲子園で優勝していますが、僕は出場すらできませんでした。上の野球の精度の高さを分かっていなかったんです。守備がこれほど難しいというのは、プロに入ってから痛感したことなんですよ。

吉村 僕の場合も左利きなので、守れる場所が限定されますからね。とにかく打つほうで目立たないと、レギュラーの道はないと思っていました。

――では、初めてのキャンプでプロの洗礼を浴びた?

駒田 実はそれもあまりなくて(笑)。教育リーグ、ファームの試合などでも「ちょっと球は速いかな」と思ったぐらい。それなりに打てもしましたし。だからイースタンが開幕して1ヵ月も経たないぐらいでようやく「あ、これはダメかもしれないぞ」と。その点、彼はやっぱり違いましたよ。

――吉村さんは1年目の夏場に一軍初昇格を果たされました。

吉村 もともと巨人ファンでしたから、一軍の選手はみんな知っている。「この人たちとやるのか……」という思いでしたね。たまたまトマソンが二軍落ちしたのでその代わりでの昇格でしたが、二軍とはすべての環境が違うんだと感じました。だからとにかくまたここに戻ってこようと思いましたね。

――それほど違いましたか。

吉村 当時の二軍は多摩川の河川敷でやっていましたから。対して一軍は、後楽園球場のナイターで、満員のお客さんの中でプレーをする。それを初めて経験して、身体が震えるほどの衝撃がありました。プロはすごいなと。だからすぐに一軍に戻れるとは思ってはいませんでしたけど、必ずここに戻るんだと。

駒田 自分はすでに1年プロでやってきて、1年下に槙原、吉村とものすごく質の高い選手が後輩として入ってきたじゃないですか。「こういう選手が後々、一軍の中心になっていくんだろうな」と思って見ていましたよ。正直、他の選手にはあまりそういうことは感じませんでした。当時、巨人の二軍は決して強くはなかったですから(巨人は78年にイースタンで優勝した後、86年まで優勝していない)。

――その当時、会話されたりは?

駒田 もちろん話はしましたが、一軍がどうだったというようなことはしませんでしたよ。一軍の選手の力は分かっていましたからね。というのも、二軍公式戦のほうが少し先に始まるじゃないですか。だから二軍の開幕戦などに、調整で一軍の投手が投げることも多かったんですよ。あの頃だと新浦(壽夫)さんや鹿取(義隆)さん、藤城(和明)さんとかね。だいたい5回ぐらいまで投げるんですが、打たれないどころかほぼかすりもしない。



――それを目の当たりにしていたわけですね。

駒田 いまは一、二軍の差がそこまでないから、下手をすればそういう投手でも打ち込まれることがありますが、当時はそのぐらい大きな差があったんです。しかも、調整とはいえ二軍で投げるということは、ローテの中心ではないわけです。となると、エース級の力というものが自ずと知れる。

――チームメイトとはいえ当然ライバルですから、そこで勝ち抜かねば一軍昇格はありませんよね。

駒田 吉村は最初から上を見ていたと思います。僕の場合、ようやく格好がついてきたのは2年目の後半ぐらいからで、ちょうどその頃に彼が一軍に上がったりした。だから彼を抜かずとも、追いついていかなきゃと思っていましたね。

吉村 二軍の試合に出て結果を残さなければ、上には行けません。その中で僕は駒田さんのことを同じ左打者として、とても意識していました。正直、他の先輩方は年もずいぶん上でしたし、また右打者を意識するってことは特になかったんです。でも駒田さんとは高校時代に試合もしていますし、守備は一塁と外野ができる。僕は高校では一塁でしたが、プロでは外野一本となったので、駒田さんが一塁に専念してくれれば外野の枠が一つ空くけど、一軍では駒田さんが外野を守ることもあり得る。やはり自分が守る位置だけはしっかり確保したいという思いがありましたからね。

――当時の一軍は現在監督の原辰徳さんが入団されて、それまで三塁を守っていた中畑清さんが一塁へコンバートされました。ですから駒田さんも一軍昇格後は外野を守ることが多くありましたよね。

駒田 それでも僕は、一塁にこだわっていました。こう言ってはなんですが、試合に出るために仕方がないから外野を守ったという感じです。用具もファーストミットにはとてもこだわりがあったけど、外野用のグラブは「このぐらいでいいや」という感じ。やはり自分は外野手ではなかったんでしょうね。ただ、中畑さん、さらに山本功児さんもいたので、なかなか一塁を守れる機会はありませんでした。

吉村 僕の場合も一軍に上がったばかりの頃は、スタメンに名を連ねるなんてことはまずなかった。得点差が開いた場面での代走や守備要員です。ゲームセットまでに打席が回ってくるかどうかという感じで。

駒田 それでも必死にやっていましたよ。

吉村 そこで結果を残さなければ、次はありませんでしたから。山本功児さんはひとまわり上。いまとは違って12歳上なんて、なんかお父さんのような感じでした(笑)。

駒田 河埜(和正)さんも功児さんと一緒かな。そのお二人が野手最年長だったと思う。

――結果的に駒田さんは、3年目に初打席満塁弾という派手なデビューを飾られました。

駒田 運も良かったです。ただその後、とても苦労しましたけどね(笑)。84年からの3年間は伸び悩んで、その一方で吉村はちゃんと2年続けて3割打って、レギュラーをつかんでいた。だからこの3年は辛かったです。王さんを育てた荒川博さんに教えを請うたりしましたが、もう上手くはなれないんじゃないかとすら思いましたよ。

――何がきっかけで変われましたか?

駒田 発想の転換が大きかったと思います。かつて二軍監督も務められた岩本尭さんが、僕が伸び悩んでいた時期にフロントにいて、査定担当をされていたんです。フロントの方ってあまり現場に口を出さないものですが、一つだけ言ってくださったことがあるんです。「野球場って何でセンターが広いか、分かるかい?」って。センターに100メートルぐらい飛ばすのは簡単なんです。下手な人でも飛ばすことはできる。だから距離を長く取っているんですが、ではなぜ両翼は短いかっていうと、ファールにならないように飛ばすのにはコツがいるからなんですね。飛距離は飛んでも、切れていってしまうわけです。だから岩本さんは「君のようにリストも長い選手は、無理に難しい方向に打つんじゃなくて、広いところに向かって素直に打てばいいじゃないか」と。

――まさに逆転の発想ですね。

駒田 そうなんです。よく、守備が下手な人に小さなグラブで練習させるってありますが、それとは逆に大きなグラブを使って、成功体験で伸ばすという逆転の発想です。それが僕にはしっくりきたんですよ。バットにしても、別に自分では40本も打とうと思ってはいないから、短いのを使えばいいやって思うようになったら結果が出るようになりました。





「最後まで諦めない」と口では言うが、その本気度は巨人とは違った


――吉村さんはいかがでしたか?

吉村 もともと僕は高校時代からインコースが得意だったんですよ。それがプロに入ってからは詰まって、まったく打てなくなった。これがプロとアマとの差なのかと思ってすごく悔しかったんですよ。それでどうすれば再び、自信のあったインコースを打てるようになるかを考えましてね。当時、一軍の打撃コーチに末次(利光)さんがいらして、右と左の違いはありましたが末次さんは内角打ちが得意だったんです。駒田さんとも一緒によく練習したんですが、そこでちょっとしたコツを聞いたのが大きかったですね。

駒田 吉村の場合はある意味、完成までは行かずともかなりのレベルにあったんですよね。でも自分は「これだ」ってものをつかむ以前でしたから、打撃フォームをいろいろ変えたりして、人から「お前には信念がないのか」とか叱られましたよ。秋季練習で反復練習をやっても、ちっとも上手くなれる気がしませんでしたし。そんなときに彼の打撃を見ると、やっぱり違うんです。一種、天才的と言いますかね、左方向への本塁打とか。僕は左に打てませんでしたから、これは真似できないなと。であれば自分は、一つひとつ身につけていく。鈍くさくやっていかなければダメだなって思いましたね。僕が左に打てるようになったのは、段階を踏んだ後でしたから。それくらい彼はすごいんですよ。

吉村 そんなことないですよ。僕からしたら、駒田さんの飛距離は絶対に真似できない。そこで駒田さんと争っても勝てるわけがないんです、排気量が違うんですから(笑)。ならば別の性能を上げなきゃいけないと思いましたね。というのも駒田さんは豪快さだけでなく器用さもあわせ持っていたんです。たとえば僕は低めが得意でしたが、駒田さんは高めを打つのがとても上手でした。「なぜあの高めに力負けしないのか、これは力だけじゃないな」と駒田さんを見ながら研究しましたよ。結果的に僕は身につけられなかったけど。



――当時は巨人の世代交代の時期だったと思います。それまでは大卒や社会人の即戦力を獲得することも多かったですが、現在までを含めても、この80年代前半から半ばまでは高卒選手が一気に台頭したときでした。

吉村 確かにベテランと若手がいて、その中間層が少ない時期ではありましたね。僕らの上の世代でレギュラーを獲ったのは原さんや中畑さん、篠塚(和典)さんぐらい。その上の代もまた少し離れていたし。

駒田 それでも僕らは「あいつも頑張ってるから俺も頑張ろう」と思うぐらいでね。

吉村 ただ、高卒選手が多かったのは事実ですね。

駒田 うん、いい時期だったのは確かです。

吉村 他球団でも工藤公康とか同い年でいい選手がいて、高卒の当たり年とは言われていたんですよ。同年代、さらに下の年代もどんどん出てきたし、いい刺激になりましたよ。

駒田 感謝しなきゃいけないのは、当時の首脳陣が一歩踏み込んでくれたこと。槙原がいい、吉村がいいって使おうと思ってくれた。それがそういう流れを呼び込んだんですよ。

――駒田さんの一つ上に岡崎郁さんがいて、吉村さんの同期には村田真一さんもいました。

吉村 そして一つ下に斎藤雅樹がいてね。その次には水野(雄仁)、香田(勲男)、ちょっと離れて桑田……。

駒田 木田優夫もいたね。

――やはり歴史的に見ても、巨人軍の高卒ルーキーがここまで成長していったのは希有なことだと思います。

吉村 ドラフトでのバランスも良かったんでしょうね。特に投手が多いですけど、プロ野球の歴史を見ても、打撃がとにかく強いというチームが勝ち続けたことってあまりないじゃないですか。やはり投手力、守備力がいいチームが強かった。私らの入った頃も江川さんがいて西本(聖)さんがいて、定岡正二さん、加藤初さんなどがいた。以降、槙原、斎藤など毎年のように新しい力が加わり、育っていった。

駒田 育成に力を入れていた時期だったんでしょうね。いまの野球で見ると、ソフトバンクはその点もすごい。千賀(洸大)くんが入ったとき、いきなり2月に149キロとか投げていた。「本当に彼は育成かよ!?」って驚いたんですけど、確かに制球は悪かったものの、光るものを持っている選手を穫り、しっかり育てあげた。そのあたりは秋山(幸二)監督もさすがだなと思いましたね。当時の巨人もそんな感じだったんでしょうね。

――それはとても分かりやすいですね。さて、巨人は常に優勝を期待され、相手からもライバル視される球団です。その中でプレーすることのプレッシャーはいかがでしたか?

吉村 プレッシャー自体は他球団でも一緒だとは思うんです。ただ、自分たちは最低限、昨年の数字を上回ることが義務であり、実際にそれを求められているチームだという意識はありましたね。そうでなければ優勝はできないし、個人的には給料が上がらない。そういう意味ではチーム内の競争というのは激しかったと思います。巨人の一軍の場合は、少し調子が落ちたらすぐに他の選手に変えられてしまうというところがありましたから。

――駒田さんは横浜に移籍され、外から巨人を見られたわけですが。

駒田 選手たちは皆、口では「最後まで諦めない」と言いますが、その本気度というか違いは確かにありましたよ。だから巨人が諦めざるを得ないシーズンとなったときは、酷いシーズンになっていましたよ。ずっと気持ちの中で粘っていたものが粘りきれなくなったときの落差。横浜ではそこまではなかったですね。4位でも5位でも最下位でも、あまり大差はなかった。

――それほど違うものですか。

駒田 僕らの時代の巨人は、多くの選手が高卒で入ってきました。個々の考え方は異なる部分もあったでしょうが、チームの方向性として皆が見ていたものは一緒だったんです。だからいい化学反応を起こしていいチームになったと思うし、僕としてもいい勉強をさせてもらったと思います。やはり、それは他球団ではなかなか難しい。

吉村 巨人でプレーしていて、相手チームがエース級をぶつけてくるのは当たり前だという意識は確かにありました。ローテを崩しても巨人にぶつけてくるというのはざらでしたし、そういう相手に勝たなければ優勝はできないと思っていました。

駒田 あの頃の巨人は投手力があったから、5回までに3点取れば何とかなるという思いがあった。もし5回を終えて3対4で負けていたとしても、3点を取っていれば相手の先発投手だって代わる可能性が高い。そうなればまた逆転の可能性は十分あると。でも横浜の場合、5回までに10点取るときもあれば、1安打も打ててない試合もざらでした。98年に優勝したときはいい化学反応で大爆発しましたが、それは長続きはしません。そのあたりはやはり巨人とは違うんです。なぜなら、当時の横浜の打者は相手ではなく自軍投手の失点と戦っていたんです。5点取られても6点取ればいい、ってね。何点取れば勝てるという計算ではなかった。

――それが巨人以外の連覇は難しいと言われるゆえんかもしれませんね。10、11年に中日が連覇しましたが、その前は92、93年のヤクルトにまでさかのぼらねばなりません。巨人は07〜09年、12年から今年と二度の3連覇があります。

吉村 いや、巨人でも連覇は難しいですよ。できそうでできない、それが連覇です。前の年と同じ力を出しても勝てないというのが野球の難しさなんですよね。

――となるとやはり、巨人が来年4連覇できるかどうかは若手の台頭も欠かせませんね。

吉村 レギュラーが固まっているから無理だとは思わず、ベテランを脅かすようになればと思いますね。原監督は若い選手たちにも積極的にチャンス与えていると思うんですが、レギュラーをつかみきれていないのが現状です。でも、中心選手たちもずいぶん年齢が上がってきましたし、彼らが出てこなければこの先は厳しくなる。



駒田 そういう意味でも運とコツ。これをつかんでほしいですね。出てくる人間というのは、何かしらコツをつかんでいるんです。それと他球団では「ちょっと面白いから使ってみよう」って抜擢されることがありますが、巨人の場合それはない。レギュラーの座は与えられるのではなく自分で獲るしかないんです。これはいつの時代でも不変です。巨人でレギュラーを獲る選手は、一定期間とてつもなく打って、ベテランに「こいつ本当によく打つな」と思わせなきゃいけないんですよ。

――ベテラン選手にですか。

駒田 「自分が抜けた後はこいつなんだろうな」と思わせないと。今年2割5分打ったから来年はもっと……じゃダメ。僕もそれまでは苦労しましたが、レギュラーを獲ったときは3割を打っていますからね。

吉村 ですからその選手の旬の時期に、どれだけ活躍できるかどうかですね。そういう意味では、若い選手たちにはもっとギラギラしてもらいたいですね。


PROFILE
こまだ・のりひろ◎1962年9月14日、奈良県出身。左投げ左打ち。桜井商業から81年ドラフト2位で巨人入り。3年目の83年に開幕一軍をつかむと、開幕2戦目の大洋戦で史上初のプロ初打席満塁本塁打を放った。87年に外野の一角を奪うと、89年からは一塁に定着。93年オフにFA宣言し横浜入り。98年に横浜の日本一に貢献した。2000年限りで現役引退。実働18年の通算成績は2063試合で2006安打、195本塁打、953打点、打率.289。05年に楽天、09年に横浜でコーチを務めた。

PROFILE
よしむら・さだあき◎1963年4月27日、奈良県出身。左投げ左打ち。PL学園では81年の選抜で優勝を飾り、82年ドラフト3位で巨人入り。1年目から一軍出場を経験すると、翌83年は規定打席未満ながら打率.325を記録。そこから6年連続で3割以上を打った。88年に試合中の事故で左ヒザに重傷を負うも、見事に復活を果たした。98年限りで現役引退。17年間の通算成績は1379試合で964安打、149本塁打、535打点、打率.296.02〜03、06〜11年まで巨人コーチを務めた。

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