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中日西武の二番打者としていぶし銀の活躍をした平野謙氏と、中日、ロッテでストッパーとしてチームを支えた牛島和彦氏が「プロ野球チームをつくろう!」に登場。中日時代、82年のリーグ優勝、ともにパ・リーグへ移籍し対戦した話などを語っていただいた。

スペシャリストを使うのが上手かった近藤監督




――「プロ野球チームをつくろう!」は、オーナー兼監督として自分のオリジナルチームを作り、他のユーザーとペナントレースを対戦していくゲームですが、ご覧になってみていかがでしたか?

牛島 実際のプロ野球を見ていて、編成や采配は違うだろうと思うファンもいますからね。ゲームでは、自分の思い通りに編成出来るのが面白いんでしょうね。(平野さんのように)バントが出来る選手がほしいこともあるでしょうし。

平野 いやいや、ゲームではバントはやらせんやろ。

牛島 チーム編成上、そういうこともあるんじゃないですか。

平野 でも僕がいた頃の西武のように、バランスのいいチームは強いんでしょう。

――アンバランスなチームは勝てることもありますが、全然勝てないチームになることもあります。

牛島 あの当時の西武は理想的なんでしょうね。西武は勝っているから強いと感じてしまったけど、一人一人を分析すると、3割を超えているのは、実は一人しかいなかったということがあった。チーム力がすごかったんですよね。

平野 打線のつながりがすごいし、それが相手投手も、みんな3割を打っているようなイメージなんだろうな。

牛島 それを考えるとタイトルを獲っている選手は弱いチームにいたような気がしますね。

平野 ロッテ、多かったもんな。

牛島 僕が移籍してすぐに最優秀救援(87年)、西村(徳文)さんが盗塁王(86〜89年)、高沢(秀昭)さんが首位打者(88年)といっぱいいましたけど、チームは5、6位。

平野 いつもロッテってすごいなあと思ってましたよ。試合もやりづらかったけど、最終的には勝ってたもんな。

牛島 新聞に「西武の恋人ロッテ」って書かれてましたよ。

平野 「お口の恋人」じゃなくて(笑)。

牛島 西武には4勝(91年=21敗1分け)しか出来ない年もありましたからね。僕が最優秀救援のタイトルを獲った年も、シーズン51勝しかしてなくて、登板は41試合。タイトルを獲るためには失敗は出来なかったですよ。

――中日時代のお二人ですが、平野さんはドラフト外入団、一方、牛島さんは高校時代からスターでドラフト1位の入団。入団経緯は正反対でしたが、プロではともに一流選手として大成功しました。

平野 エリートと無名の雑草でしたよ。でも入団したら関係ないよね。でもウシが先に一軍に行ってるもんな。

牛島 1年目の80年8月ですが、一緒の日でしたよね。

平野 僕は近藤(貞雄)監督になった81年だよ。

牛島 あれ? 一緒に上がったというイメージがすごく残っているんですが。豊田(誠佑)さんが故障してレギュラーを獲ったんですよね。

平野 それは優勝した82年。一軍に上がったのは81年で、「与作」を歌う外国人、なんて言ったかな……。

牛島 スパイクス

平野 そうそう、スパイクスの守備固めで開幕一軍を手にした。

牛島 平野さんは投手で入団して、野手に転向してますから、時間は掛かったですよね。

平野 1年目の後半調子が良くて、ファームで2勝したんですよ。それで一軍に上げようかという話もあったらしいんだけど、背番号が81でダメになって、星稜高からドラフト2位で入団した小松辰雄が一軍に上がった。

――80番台がダメという規定があったんですか?

平野 暗黙の了解で(笑)。ドラゴンズがそんな番号の投手を一軍で投げさせるのはどうかという話ですが。あれで僕が一軍入りし、ずっと投手で……やっぱりやってないわな。

牛島 いや〜分からないですよ。でも野手で成功したからいいじゃないですか。僕は実際に投げているのは見たことないですが。

平野 見ない方が良かったよ(笑)。真っ直ぐを投げてもやっと130キロぐらいだから。

牛島 僕もそんなもんでしたよ。

平野 まあ投手は無理だったな。堂上(照)さんに「お前は投手を首になって良かったな」としょっちゅう言われてましたから。あとは近藤監督になったことも、僕には運がありましたね。

牛島 近藤監督はスペシャリストを使うのが上手かったですね。レギュラー一番手の豊田さんが故障して、平野さんは足が速いし守備も上手い。でもスイッチヒッターになったばかりで、左での打撃がまだ弱かった。その時に監督が平野さんに「バント出来るか」という話をしたことを覚えているんですよ。

平野 全部「バントせい」と言われていた。セーフティをやったらお前は5割バッターになれると言われて。



牛島 でも、それでレギュラーを獲ってますからね。僕なんか1年目先発、2年目は先発で失敗して中継ぎ。3年目に「お前は頭が悪いし、集中力が続かないから抑えをやれ」と急に言われた。短い時間の方が集中出来るやろという発想なんですね。一芸に秀でた選手をそのポジションに当てはめていくのが上手かった。



平野 頭が悪いというのはウシにだけ言っていたんだよ。僕らには「牛島は頭が良くて度胸がいい。打たないと思ったら真ん中に投げ込める投手だから。典型的な抑えだ」と言って褒めていたからね。

牛島 本当に発想が面白い人で、また選手のいいところを伸ばそうという感じでしたね。

平野 僕の一軍1年目はほとんど試合の終盤しか用がなかった。スパイクスの守備固めと、彼が最終打席に出塁したら代走から守備に入る。打つ人、代走、守る人ときっちり分けたのが近藤監督。

――もともと投手の分業制を提唱した方ですよね。

平野 そう。いい監督だったよね。

牛島 選手が納得することを言うんですよね。プロの世界ではそれが重要かなとも思いますね。

――その近藤監督の2年目の82年にはリーグ優勝を果たしました。

平野 130試合目の最終戦。大洋に勝ってね。

牛島 その試合、平野さんビール飲んでましたよね。

平野 ゲーム前だろ。横浜スタジアムのロッカーに「緊張している奴はビールを飲んで出ろ」という感じで小瓶がいっぱいあったんだよな。

牛島 129試合目に負けていて、最終戦に勝てば優勝という展開で、みんなピリピリして緊張しているわけですよ。それでビールが出てきて何人かは飲んでいましたよ。平野さんはその中の1人。さすがに投手陣は飲まなかったですけど。

――この試合は大洋の長崎啓二さんと中日の田尾安志さんが首位打者争いをしていて、長崎さんがトップで田尾さんが全打席敬遠された試合ですね。

平野 田尾さんが敬遠ばかりされるから、二番の僕はバントが多かった。打ちたかったんだけど。この試合は大洋の左の外国人・マークがあわや3ランというファウルを打ったんだよね。それが本塁打になっていたら試合は分からなかったですよ。その後、先制して(2回)、谷沢(健一)さんが本塁打を打って、一方的な試合(8対0)になったんですけど、9回のセンターの守りの時は足が地に着いてなかった感じですね。

牛島 僕はリードしていたら登板があると思ってブルペンで集中していたんで、前半に誰が打ったというのは覚えていないですね。小松さんが先発して、8点差の9回に1イニング行けと言われたんですが、緊張していたんで、ひょっとしたら9点取られるかもしれないと思って「結構です」と言って、ブルペンで仕上げてベンチに行きました。優勝の瞬間にすぐに飛び出せることも考えましたから。

平野 僕はセンターから行ったら、もう胴上げの輪の中に入れなかったからね。でも、懐かしいな〜。

牛島 当時、僕は21歳で、あと何回優勝出来るのかなと思ったんですけど、その後1回もなかったですよ。

平野 そうか。僕は西武の6年間で5回もリーグ優勝してるんだよな。

――89年だけ、近鉄・ブライアントの4連発で優勝を逸してましたね。

平野 あの時の日本シリーズの最中にチームメイトで箱根でゴルフをやっていたんだけど、「つまらないゴルフだな。何がつまらないんだろう。そうか、日本シリーズをやってないからだ」と。すごい発想だよね。「今年はむかついたから、来年はぶっちぎりで優勝しような」と誓って、90年はみんな真剣にやって独走で優勝したからね。真剣にやらなくても勝っていたからね。すまんなウシ。

牛島 いやいや。あの時のパ・リーグは西武の時代でしたからね。



トレードで西武、ロッテで対戦した両氏


――お二人が初めて出場した日本シリーズの相手が西武で、その年が黄金時代の幕開けでしたからね。その82年の日本シリーズの第5戦の3回、0対0、二死二塁のチャンスで平野さんの打った打球は一塁線を抜けたはずなのに審判に当たり二塁走者の田尾さんがアウトになり、シリーズの流れが変わった一打と言われました。

平野 あーそうですよね。一塁線に打って、一塁の田淵(幸一)さんがボテッと倒れたところを見て、「これは先制点になる。ヨッシャー」と思って走ったら、村田(康一・一塁塁審)さんが足でインサイドキックをしたのが見えた。この人何をやってるんやろうと思ったら、二塁手の山崎(裕之)さんがボールを捕って三塁に投げている。当然、一塁線を抜けたと思っていた田尾さんは三塁を回って、コーチが「戻れ」と言って戻ったけど楽々アウト。あれにはビックリした。

――そのシリーズは2勝4敗で敗れ、87年に牛島さんがロッテ、88年に平野さんが西武に移籍。今度は敵として対戦したのですが、これはいかがでした。

平野 僕は1本だけセンター前に打っている。

牛島 もっと打ってるんじゃないですか。平野さんや大島(康徳、中日→日本ハム)さんは打席に入る時に笑うんですよ。投げにくくてしゃあないんですよ(笑)。



平野 仲のいい投手と対戦するのがすごく嬉しいんですよ。僕は勝負に徹することが出来ないタイプだから、仲のいい投手はまず打ったことがない。

牛島 先輩やし、親しいし、厳しいところは放られへん。打たれるやろうなと思いながら投げてましたよ。

平野 絶対にウシは打てないと思っているから、本当に記憶は1本だけですね。親しい投手で打ったのは平沼(定晴)ぐらい。あいつは僕の振るところに投げるんだよ。



牛島 相性もあるんでしょうね。僕がある選手を抑え込んでいて、オフに会って話をした時に「5割以上スライダーを投げてるんだから、それを待っておけば打てるよ」と言ったことがあるんですよ。翌年対戦した時に、言った手前スライダーを投げなければならないと思い、コースを狙って投げたら3ボールになった。しょうがないから今度は真ん中付近にスライダーを投げ続けたら、3球とも空振りしましたからね。あとで話をしたら「まったくタイミングが合いません」と言われた。分かっていても打てないというのはあるんですよ。

平野 あるね。近鉄の赤堀(元之)が真っ直ぐを投げると教えてくれるんですが、どうやったってファウルにしかならない。同じ近鉄の佐野(重樹)も仲が良くて、1球目にこの球から入りますよと言ってもらっても、打てないんだよな。不思議だった。

牛島 当時のパ・リーグはそういうことを相手に伝えて真っ向勝負する楽しみはありましたよね。いまのように人気がなかったのでリーグを盛り上げるために、敢えてそういう形で勝負する。

平野 当時は個性があったよね。

牛島 88年10月19日の近鉄戦のダブルヘッダー(近鉄が連勝すれば逆転優勝も、1勝1分けで西武が優勝)。第1試合の同点の9回、二死二塁で梨田(昌孝)さんと勝負して打たれて負けたんですよ。ダブルヘッダーだから延長はないし、一塁が空いている。敬遠をしてつめた方がいいんだろうけど、その年で引退を決めていた人を敬遠して、その後抑えても「何が残るねん」と思って勝負に行った。

平野 西武球場で見てたよ。

牛島 あの時は第2試合で高沢(秀昭)さんが同点ホームランを打ったりしましたが、ロッテは勝っても悪者、負けても悪者、手抜きしたらもっとダメ。だから全力でやろうということを決めて試合に臨んだんですよ。なのでロッテが悪者のように言われるのがイヤやなと思いますね。

平野 それはたまたま近鉄の相手がロッテになっただけだよね。うちらはみんな高沢にお礼言ってたけど(笑)。

――プロ野球史に残る日でしたよね。

平野 久しぶりに話をするから、嬉しくて話が尽きないね。

牛島 ネタはいっぱいあるので、平野さんは延々話し続けますよ(笑)。




PROFILE
平野謙 ひらの・けん◎1955年6月20日、愛知県名古屋市生まれ。犬山高、名古屋商大を経てドラフト外で78年に投手として中日に入団。2年目に野手に転向し3年目からスイッチヒッターとなる。81年に一軍初出場し頭角を現し、翌82年にレギュラーとなりリーグ優勝に貢献し86年には盗塁王を獲得。88年に西武に移籍し二番・右翼で5度のリーグ優勝を果たす。94年にロッテに移籍し96年限りで引退。通算成績は1683試合、1551安打、53本塁打、479打点、230盗塁、打率.273。

PROFILE
牛島和彦 うしじま・かずひこ◎1961年4月13日、大阪府大東市出身。浪商高時代はエースとして3年春の甲子園で準優勝、夏はベスト4。ドラフト1位で80年に中日に入団。3年目の82年にストッパーとして活躍しチームはリーグ優勝を果たす。87年にロッテに移籍し、その年の最優秀救援のタイトルを獲得。89年には先発に転向し自己最多の12勝を挙げた。93年限りで引退。05、06年は横浜の監督を務めた。通算成績は395試合、53勝64敗126セーブ、746奪三振、防御率3.26。

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