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1980〜90年代にかけて、セ・パ両リーグで活躍された高木豊氏と金村義明氏。現在は、ともにフジテレビONE「プロ野球ニュース」の解説者としても活動中。お二人の現役の頃と、解説者の視点から見た現在のプロ野球界を比較していただいた。

野球解説者として心がけていることは…




――「プロ野球チームをつくろう!」を見ていただき、いかがでしたか?

金村 これまでゲームはあまりプレイしたことがなかったけど、球団のオーナーになれるなら、やってみたいですね。

高木 操作方法を覚えるまでは難しいだろうけど、システムが分かれば相当おもしろいでしょうね。

――どんなチームを作りたいですか?

金村 OBとして、消滅してしまった大阪近鉄バファローズみたいなチームを作りたい。亡くなられた仰木さんを監督にして、「いてまえ打線」を復活させたいですね。

高木 僕はドリームチームを作りたい。過去に活躍したレジェンドたちを集めたら楽しいでしょうね。エースは江川、4番はバースとかね。現役で活躍している選手たちと戦わせてみたい。

金村 ブライアントとかブーマーを4番に座らせたら負ける気がしないですよね。

――現在はお二人ともフジテレビONE「プロ野球ニュース」の解説者としても活躍されていらっしゃいますが、普段から解説者として心がけていることはございますか?

高木 素直にしゃべること。とにかく着色せず、自分の目で見たことをそのまま伝えるようにしています。いいと思ったことは素晴らしい、悪いと思ったことはダメだと、はっきり話す。オブラートに包んでしまうと、視聴者のみなさんも“何を言いたかったんだろう?”って、不完全燃焼で終わってしまうでしょ。ただ、ダメだと指摘した選手には、あとからフォローすることも忘れません。ただ、フォローできないプレイは突き放しますよ。とにかく、番組を見ている方々が納得してくれるように、しっかりと頭の中を整理してから解説するように心がけています。

金村 僕の現役時代、パ・リーグはファンも少なく、全然人気がなかった。だから、マスコミの方々が取材に訪れることもほとんどなかったです。そんな中、あるスポーツ番組で僕のプレイをチクリと指してきた解説者がおりまして。1度も取材を受けたこともなければ、現場でお会いしたこともない方でしたので、腑に落ちなかったんです。だから、僕が解説者になったら、選手にそう思われないようできるだけグラウンドに降りて、選手に一番近いところで観察しようと思ったんです。引退した後は、特に仕事が決まっていなかったのですが、「3年で解説者になる!」と、家族に宣言して2月のキャンプ取材に出かけました。12球団のそれぞれの監督にあいさつして、選手にも声をかけて。地味なスタートでしたが、そのおかげで今の自分があると思っています。

――お二人が現役で活躍されていた80〜90年代にくらべて、現在のプロ野球界が大きく変わったと思うところはございますか?

高木 まず、球場の広さが全然違いますよね。

金村 近鉄の場合は、企業に借りていた球場でプレイしていたからナイター照明がなかった。グラウンドも整備不良で、練習もままならない。自分たちで整えることもしばしば。キャンプなんかは、寒い雪が降るような場所で行なったり、若手は10人入る大部屋で寝泊りさせられたり。そんな状況でしたから、練習しているのは若手だけ。ベテランってあんまり練習しませんでしたよね? 

高木 そうだね。寒い時期のオープン戦は、先発から外れていた。それなのに、今は2月1日のキャンプインからバリバリ動けるようにしてこいって言われている。

金村 当時は、オフになると張り詰めた気持ちと筋肉を芯からゆるめろ!って、温泉に行って、マッサージして、とにかくリラックスすることを念頭においていました。

高木 遠征に行く際は、ビジネスホテルが主流だったけど、今は一流ホテルに宿泊するのが当然だもんね。

金村 当時のビジネスホテルは壁が薄すぎて、3軒向こうの部屋から、目覚まし時計の音が聞こえていましたね。

高木 ある地方の遠征で泊まったホテルは、夜中にトイレへ行く時、音が他の部屋に聞こえるから、朝に流せって言われた(笑)。



金村 僕らが泊まったホテルは、部屋が狭すぎてバットが振れませんでしたから、コーチにエレベーターホールで振れって言われて。そしたら、門限過ぎて帰ってきた先輩たちが続々とコーチ陣に見つかってね。「お前がそんなところで素振りしているから見つかったんだ! 地下駐車場で振れ!」って、怒られました(笑)。

高木 横浜大洋から日本ハムへ移籍した時に思ったんだけど、パ・リーグはセ・リーグにくらべて緩く感じることが多かった。試合を見に来るお客さんが少ないからかもしれないけど、実は、プレイボールがかかったかどうか、わからない試合もあったりしました(笑)。当時は、東京ドームがホームだったのですが、開幕したばかりの試合にも関わらず、開門時間を過ぎてもお客さんが入らない。ペナントレースが始まったばっかりなのに、まるで消化試合みたいだったなぁ。東京ドームといえば、横浜大洋時代の巨人戦は常に満員だったから、あまりにも違うロケーションに驚きました。

金村 僕は逆ですね。FA宣言して中日へ移籍した年は、毎日が日本シリーズかと思うくらいお客さんが球場を埋め尽くしていました(笑)。



――現在は、パ・リーグファンの数も相当増えました。

高木 日本ハムが札幌に移転して、ファンを増やしたり、試合終了後にファンをグランドに降ろしてイベントをしたり、率先してフィールドシートを作ったり、パ・リーグはファンサービスが充実してきたよね。だから、試合を見に行く人が増えた。今はパ・リーグの方が観客入るんじゃないですかね。

金村 当時は、パンチパーマをあてて、セカンドバッグを持つっていうイメージが強かったけど、セ・パともに俳優さんっぽいスマートな選手が続々入団してきてますね。

高木 巨人、阪神などは人気球団だから露出を控えているし、ファンに対して他の球団よりも制限が厳しい。あの2球団が積極的に露出するようになったら、もっと球界は変わっていくでしょうね。

金村 今は女性ファンも多いですね。僕らの頃なんて、女性ファンなんてほとんど見かけなかった。また、ポストシーズンが設けられたことは大きい。シーズン中選手は自己管理をしっかりしないといけないですが、ポストシーズンのおかげかどうかわかりませんけど、選手寿命が延びてますね。昔は34、5歳でオッサン扱いされるし、30代に突入したら引退を考えるのが当然でしたね。

高木 今の選手はしっかりしていますよね。将来的なビジョンも明確で、今何をしなければならないのか、分かっていますね。僕は、何も考えてなかったから早く引退しちゃったけどね(笑)。



今と昔とでは、野球をする環境だけでなく選手の考え方も違う


――お二人が現役の頃と今とでは、違うことが多いですか?

高木 プロ野球選手には保障なんてものはなかったから、必死でプレイするしかなかったです。保障について考える選手の気が知れないですよ。ただ、もう少し各球団が、選手に手を差し伸べるべきだとは思いますけどね。

金村 僕が元気だった頃、大阪は阪神一色。何とかしてこっちを見てもらおうと、みんな必死でした。見栄を張って、借金をしてでもベンツを買うのもそのひとつ。ナンバープレートに背番号を入れたりしてね(笑)。他のチームの選手に負けたくない一心でした。そうかと思えば、東京遠征に行くとき、新幹線に乗った瞬間、標準語をしゃべるような選手もいたりしました(笑)。

高木 東京といえば、巨人戦はかなり気合いが入ったね。全国ネットで放送される試合だから、どんどんアピールしていこう!って。相当対抗意識が高かったね。

金村 選手は活躍しないと評価してもらえないのは当然なのですが、当時の首脳陣は、チームのビッグプレーヤーだけを評価するのが通例でした。そこで選手同士の格差が生まれるんですけど、それがパ・リーグの反骨精神にもつながったんです。僕が新人の頃に出場したジュニアオールスター戦は、他の新人たちに負けたくないから気合い入りまくりで、活躍して賞金をゲットしようと鼻息が荒かったです。忘れもしない、82年7月23日、横浜スタジアムは超満員になるくらい人が入っていて、甲子園の決勝戦みたいな雰囲気でしたね。1本ヒットを打ったらもう1本、さらにもう1本打つぞって1打席1打席が必死でしたよ。気づけばサイクルヒット達成。おかげさまで横浜が大好きになりました(笑)。

高木 ジュニアオールスターといえば、新人のアピールの場なのに、今ではみんなニコニコしながら楽しんでいるよね。

金村 僕らの時代はギラギラしてましたよ! 

高木 これを機に一軍にあがってやるんだっ!ってね、みんなが虎視眈々と1軍入りを狙うのが当たり前だったのに。

金村 今は、他球団の選手同士が携帯でお友達付き合いしてますよね。自主トレを違うチームの選手同士でするなんて、僕らからしたら考えられないですよ。同じチームの選手ですらライバルだと思ってました。仲良くすることなんてなかったし、同じ年の選手の年俸もみんな気になってたんで、頑張ってあいつよりも多く稼いでやるってことしか頭になかった。だから仲良し軍団なんてなかったですよね。

高木 あるチームのエースと、別のチームのエース候補が一緒に自主トレをやっているのも見かけたけど、そのエース候補が、自主トレのおかげで15勝あげるくらいに育ったら、そのエース自身がかなり痛い思いをするはずなんだけどなぁ……。

――90年、仰木さんがオールスターの監督になり、金村さんは監督推薦で出場されました。

金村 オールスターなんて夢のまた夢と、自分の中ではあきらめていたので本当にうれしかった。88年に仰木さんが近鉄の監督に就任されたのですが、とにかく「打倒・西武」を合言葉にがむしゃらにやっていました。強すぎる西武をやっつけて、パ・リーグを盛り上げようと必死でしたね。



高木 その頃の西武は、86年から94年まで9シーズンで8度のリーグ優勝していて、黄金期だったよね。

金村 伝説の「10.19」なんて言われていますが、88年の近鉄は、最終日にロッテ戦のダブルヘッターが組まれました。最後の最後まで西武と優勝争いをしていたのですが、惜しくも二厘差で優勝を逃してしまいました。僕は手首をケガしていたので、ずっとベンチで見守っていたのですが、優勝できなかったことがとにかく悔しくて、チームメイトと一晩中泣きながら飲み明かしました。それが翌年のパ・リーグ制覇の原動力につながるわけですが。

――高木さんにとって印象深い試合はございますか?

高木 たくさんあるけど、解説者として臨んだ00年9月24日の中日対巨人戦かな。マジック1の巨人が、4点差を追いかける試合展開で、9回裏に中日のギャラードから江藤が満塁本塁打を放ち同点に追いついた。続く二岡がサヨナラ優勝決定本塁打を打ってね、その瞬間に鳥肌がたったよ。と同時に球場全体が揺れたんだ。あの試合は忘れられないね。もちろん、98年に38年ぶりに優勝したベイスターズ戦も記憶に残っていますよ。



金村 あ、その試合は僕が最後のバッターでした(笑)。僕もまだまだ印象深い試合がありますよ。ルーキーイヤーの82年9月21日、対日本ハム戦でピッチャー木田勇さんから放った初ヒットはよく覚えてます。高校時代はピッチャーでしたが、プロにはバッターに転向して入団しました。ウエスタンでは全イニング出場し、ジュニアオールスターでサイクルヒットを記録して、初めて1軍にあげてもらったんです。それなのに4打席とも連続三振して、プロの世界は厳しいなって実感しました。

高木 今だったら3打席連続三振した時点で、4打席目は代打が送られるはず。でも、4つも三振したってことは、かなりの期待の現れだったと思うよ。

金村 中日へ移籍した時の試合も思い出深いものがありますね。星野さんが2回目の監督に就任した1年目(1996年)、巨人の”メークドラマ”での優勝がかかった試合に外国人選手(コールズ)の変わりにスタメンに名を連ねたんです。引退試合になるかもと思ったので、すぐ家族を呼びました。この時の名古屋東海地区の視聴率が40%代後半でしたね。成績は1打数1安打で、同点タイムリーを放ったんですけど、次の日から地元ではプチスター扱いでした(笑)。パ・リーグで何百本もヒットを打つよりも、巨人の優勝決定戦で同点タイムリーを放つほうが何十倍もインパクトがあるんだなって思いました。一生忘れないでしょうね。次の年は西武と契約してパ・リーグに復帰しました。引退試合は西武ドームではなく、千葉マリンでさせていただききましたが、この試合も印象深いものでした。




PROFILE
高木豊 たかぎ・ゆたか◎1958年10月22日、山口県防府市生まれ。81年中央大学卒、横浜大洋ホエールズにドラフト3位で入団。加藤博一屋鋪要とともに「スーパーカートリオ」として大活躍。84年には56盗塁を決め、盗塁王を獲得。日本ハムを経て94年に引退。通算成績は1628試合、1716安打、88本塁打、545打点、打率.297。引退後は、解説者、横浜コーチ、アテネ五輪コーチ等も務める。

PROFILE
金村義明 かねむら・よしあき◎1963年8月27日、兵庫県宝塚市生まれ。81年報徳学園在学中に春夏で甲子園に出場。エースで四番を打ち、夏は全国優勝を果たす。同年近鉄にドラフト1位で入団し、三塁手に転向。95年にFAで中日へ移籍し、97年トレードで西武へ移籍。99年に引退。通算成績は、1262試合、939安打、127本塁打、487打点、打率.258。現在は、野球評論を中心に幅広い分野で活躍中。

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