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ホークスの中心打者としてチームを牽引した”カズ山本”こと山本和範氏と、阪神では先発、ホークスでは抑えとして活躍した池田親興氏が「プロ野球チームをつくろう!」に登場。九州の出身でホークスに対する思いは人一倍強い2人。発展途上だった当時のチーム状況や、強くなったホークスの話などを語っていただいた。

「二番」も「抑え」も自分の好みではなかった




――「プロ野球チームをつくろう!」をご覧になっていかがでしたか?

山本 オーナー感覚でやれるゲームというのは面白いですね。

池田 若い頃は対戦型の野球ゲームをやっていた時期があったんですが、だんだんやらなくなりました。チームを作っていくというのは新しい野球ゲームの楽しみ方だと思いますね。

山本 僕もやったことがあるんですが、ボタンがいろいろあって分からなくなるし、変化球が全く打てなくて結局やめてしまった。このゲームだったらそんな心配はないのでいいですよね。

池田 ファンの方は実際のプロ野球の打順に対して「違うんじゃないの」と思っている人もいるわけで、その思いをゲームの中で達成していくのはいいですね。いま見たチームではソフトバンクの柳田(悠岐)を二番に置いていましたが、彼はクリーンアップでも使えるし、カズ(山本)さんだったら柳田を何番で使いますか?

山本 僕は一番ですね。

――二番は小細工タイプというのが定番ですが、山本さんも現役時代は二番を打ったことがありますよね?(94年)

山本 根本(陸夫)さんが面白い監督で僕を二番に置いたんですよ。それに応えようとランナーを進めるバッティングをしたら怒られたことがありました。長打を打ってくれと言われましたよ。ひとつ勉強になりましたし、いい監督さんと巡り会えたなと思いました。このゲームもそういう攻撃的なオーダーを作れるので面白いですよね。

池田 いろいろな考え方がありますよね。それから僕らOBが加われるのは非常に嬉しいことです。もちろん僕たちの現役時代を知らなかったり、うろ覚えの人もいるのでしょうが、そのユーザーの方がどういう使い方をしてくれるのか興味がありますよね。

山本 池田君は先発もできるし、抑えの経験もありますから、いろいろな形で使えますよね。

池田 実は抑えは好きでやったわけじゃないんですよ。

山本 田淵(幸一)監督の時でしょう。面白い監督でしたよ。池田君は阪神時代に日本シリーズの大舞台で活躍しているし、ここという場面に強いということを考えて抑えにしたんじゃないですか。

池田 (ダイエーに移籍1年目の91年)最初は先発だったんですけど、抑えの斉藤学の調子も良くなく、「お前ちょっとベンチに入れ」と言われて、そのまま抑えになったんです。

山本 僕だって好んで二番を打ったわけじゃないよ(笑)。

池田 自分自身は先発型だと思っていたし、抑えなんかできないと思っていました。でも、その固定観念を払うことによって、違う能力を発揮出来るということが分かりました。

山本 打順にしても監督が決めることで、選手はまず試合に出場することが一番。何番を打ちたいということはなかったですよ。

池田 僕らが過ごしてきたダイエーの時代は、まだ手探り状態で先が見えなかった。でも監督がいろいろな発想をしたり、ドーム球場に変わって、その野球に適したトレードやドラフトで選手を獲得して99年に優勝した。ソフトバンクに変わってからも優勝している。流れはこのゲームの流れにも似ていますよね。

――そういうサクセスストーリーを体験出来るのが「野球つく」ですね。93年に平和台から福岡ドーム(現・福岡ヤフオク!ドーム)に変わった時、どんな変化がありましたか?

池田 フリーバッティングではなかなかスタンドに入らなかったですよね。

山本 そうだったね。まだ南海だった時、大阪球場が本拠地で、その時に東京ドームができた(88年)。その時に球場が広くなるということで外野の守備を重視した陣営に変えるチームも出てきたんだけど、正直東京ドームはそんなに広くは感じませんでした。でも福岡ドームの時は広く感じましたね。全然スタンドインしないので、打ち方を変えなければならんと。それに走れなければダメだなと思いましたよ。



池田 平和台でやっていれば、カズさんの技術だったら常に打てるので、特に何もしなかったとは思いますが、福岡ドームになって「走る」ことを意識したことで選手寿命が長くなった可能性はありますよね。



山本 まさにその通り。福岡ドームのお陰で自分のバッティングをもう一度考え直すことができたしね。

池田 ピッチャーも変わりましたよ。平和台ではインコースを投げる時はコントロールミスはできなかったけど、福岡ドームになったら多少ミスしてもそんなにスタンドインはしないだろうと思い、大胆に攻めることができましたね。

山本 強気になれたよね。



福岡のファンの熱い声援がチームを変えていった


――お二人ともに九州の出身で、山本さんは球団譲渡で大阪から、池田さんはトレードで福岡に来ました。地元・九州のチームでプレーすることはどう思われましたか?

山本 僕は小さい頃から平和台、北九州市民球場で西鉄ライオンズを見ていました。その頃のファンのマナーは最悪で、負けるとビール瓶が飛んできたんですよ。それを考えたら、福岡移転は最悪だと思いましたね(笑)。「知り合いも多いし、こんなところで負けたらどうなるんやろ」と不安ばかりでしたよ。でも実際に来てみたら、ダイエー球団が試合をイベント化してくれて、全然そんなことはなかったですね。最初はライオンズファンが多くて、ホークスファンはあまりいなかったんですが、球団の努力で変えましたからね。熱い応援の力で現役も長くやれましたし、本当に感謝していますね。野球をやっていて良かったなと思いました。

池田 僕は九州に戻ってくる自体はありがたかったのですが、前年7月21日の甲子園での広島戦で打球が頭部に当たったんですよ。意識不明になって救急車で運ばれてしまい、その後大分回復はしたんですが、日常生活でもまっすぐ歩けない状況の中でトレードの話があったんです。投げる自信もなかったのでダイエーにも迷惑が掛かるし考えさせてもらおうと思ったら、いつの間にか5対4の大型トレードになっていて、結局断れなくなった。そんな状態だったので、野球ができるのかどうか不安を持って福岡に来たのを覚えています。僕は4年間しか在籍せず、99年の優勝時にはいませんでしたが、強くて人気のあるチームに変わっていく過程の中に在籍できたことは良かったと思っています。



――当時はまだ苦しいチーム状況でしたよね。

池田 カズさんたちは南海からダイエーになった時はギャップに苦しんだんじゃないですか?

山本 それはあるよね。

池田 お客さんがあまり入らなかった大阪からほとんど満員になる平和台になったことも大きな変化でしたよね。

山本 お客さんが多かったことは大いに燃えましたね。嬉しかったですよ。

池田 甲子園のお客さんのように熱いんですよ。博多人の気質なんですかね。満員でも甲子園の半分ぐらいの観客数ですが熱気はすごかったですね。

山本 弱かったけど、とにかく打ち合いが多いチームで、点差がついて負けていてもライトスタンドのお客さんは帰らないんですよ。終盤になると頑張って点を取りましたからね。これもお客さんのお陰でしたよね。

池田 親会社に引っかけて「閉店間際のダイエー」とよく新聞に書かれてましたね(笑)。わざと前半に点を取らないわけじゃないですが、お客さんが帰りづらいような試合をしてました。僕もリリーフやっていて、閉店間際の逆転を信じて粘り強いピッチングをできましたからね。

――93年に根本監督となり、強いホークスの礎を築き始めました。

池田 根本さんは宇宙人でしたね(笑)。話していることがほんとよく分からないんですよ。でも10、20年先を見て話をしていて、後になってあの時はこういうことを言っていたんだと理解できますね。名前の通り「こんぽん」を大事にされる方でした。

山本 先ほども言いましたが、僕が二番を打ったのも根本さんのときでした。僕の知っている野球の固定観念を変えてくれた人でしたね。

――それは2年目の94年でしたよね。初年度はほとんど何もせず、チーム状況の把握をしていたという話を聞きましたが…。

池田 大変でしたよね。2月1日のキャンプの初日、アップも自分たちで勝手にやれと言われ、いきなり練習試合でしたからね。投手陣にもピッチング練習をしておけというんですが、キャッチャーがいないんですよ。どうやってピッチング練習をやればいいのか…。

山本 キャッチボールがやたら長かった?

池田 基本だからものすごく長いんですよ。

山本 僕は面白い監督だなと思ってみてたんですけどね。

池田 ピッチング練習にしても、キャッチャーがいなければどう工夫してやるかということを問いかけていたんだと思います。

――お二人が退団して、99年にダイエーが優勝しますが、この優勝に対してどんな思いがありましたか?

山本 いつかは優勝するだろうという思いで見ていましたよ。僕は近鉄で敵チームだったですが、優勝した時は泣いてましたね。残念だったのは自分がそこにいなかったことです。オーナーの中内功さんが好きだったので、ずっとダイエーでやりたい気持ちがありましたし。

池田 95年に王(貞治)さんが監督になられて、トレードやドラフトでいい選手を獲得しましたけど、すぐには実にならなかった。いい選手を集めたからすぐに結果に表れないのも野球の難しいところなんですよね。優勝経験者も集めて意識改革を行い、その中でいらない選手は出され、新しいものと融合してチームをレベルアップしていく。それが99年に優勝して実ったわけですよね。

――99年限りで山本さんは近鉄で引退するのですが、福岡ドームの優勝セレモニーの前に場内一周をしていますよね。



山本 その年はずっと二軍で試合に出たのはその1試合だけでした。9月30日だったんですが、頼むからその前にダイエーの優勝が決まっていてくれと思いました。優勝決定ゲームで当たったらたまったもんじゃないと。ダイエーには優勝してほしいし、僕も打ちたかったですからね。

池田 あの時はホームランを打ったんじゃなかったですか?

山本 そう、篠原(貴行)君から決勝ホームランを打って、彼に初黒星を付けた。近鉄球団から「福岡ドーム」を花道にしてくれと言われたんだけど、それはおかしいよね?近鉄の選手なんだから大阪ドーム(現・京セラドーム)でやるのが当たり前じゃない?

池田 そうですよね。でも敵地で引退ゲームをやるのはなかなかないことですから、すごく印象に残っているんですよ。ホームランも打って、場内一周もして、両球団のファンから惜しまれて・・・。

山本 まだ現役をやりたい気持ちはあったんで、他球団のテストを受けようと思ったんだけど、この試合でその気持ちがすっかりなくなりました。

池田 もういいでしょう(笑)。

――福岡ドームの本塁打と言えば、近鉄に移籍した96年のオールスターで決勝本塁打を放ちました。

山本 福岡ドームで最初のオールスターでした。その年はたまたま成績が良くて初めてファン投票で選ばれたんですよ。仰木(彬)監督がパ・リーグの指揮をとったんですが、地元・ダイエーの小久保(裕紀)君の代打で出場してホームランを打ったんですよ。仰木さんも変わった発想の方でしたね。普通地元のスター選手を代えないですよね。

池田 そこでホームランを打ってしまう方があり得ないですよね。

山本 まぐれだったよ(笑)。

――最後に今年のソフトバンクはいかがですか?

山本 ファン代表としては勝ってほしいです。なかなか思い通りに行かないのも野球なのですが。

池田 昨年日本一になって守る立場なのでしょうが、監督、コーチが変わって、工藤(公康)監督のV1という感覚を持ってやれば、攻める気持ちになれると思います。連覇の可能性は高いですね。対抗は大量補強をしたオリックス楽天も大久保(博元)監督になってすごく明るく元気で、自分たちで考えて野球をやろうとしていますから、ローテーションがきっちり組めれば怖いチームですね。これに日本ハムを加えた4球団が優勝争いに絡むと思います。

山本 ソフトバンクは戦力的にBクラスはあり得ないですよ。でも僕が一番面白いと思うのは3位からCSを勝ち上がって日本一になることですね。10年にロッテがやっている形ですが、あれはお客さんが喜ぶでしょうね。

池田 でもやられたチームはファンも含めてたまらないでしょうね(笑)。




PROFILE
山本和範 やまもと・かずのり◎1957年10月18日、福岡県北九州市生まれ。戸畑商高からドラフト5位で77年に近鉄に入団。一軍で結果を残すことができず82年限りで退団。83年に南海に移籍し84年にレギュラーを獲得。94年までチームの中心選手として活躍。94年は打率.317で2位、打率3割を3度マークしている。96年に近鉄に移籍。99年限りで現役を引退した。通算成績は1618試合、1400安打、175本塁打、669打点、打率.283。

PROFILE
池田親興 いけだ・ちかふさ◎1959年5月17日、宮崎県宮崎市出身。高鍋高から法大、日産自動車を経てドラフト2位で84年に阪神に入団。1年目に9勝を挙げると翌年も9勝し21年ぶりの優勝に貢献。日本シリーズでは完封勝利も挙げた。91年にダイエーにトレードされストッパーとして活躍。95年にはヤクルトに移籍し、その年限りで現役を引退。通算成績は277試合、53勝69敗30セーブ、570奪三振、防御率4.58。

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