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1990年代前半、ヤクルトのエースとして活躍した西村龍次氏と、92年入団以来、ダイエーの中心投手だった若田部健一氏が「プロ野球チームをつくろう!」に登場。98年から4年間ダイエーで一緒にプレーした両氏に、当時の先発投手のこと、ダイエー連覇の話を語っていただいた。

先発投手は完投を目指すのが当たり前の時代




――「プロ野球チームをつくろう!」を見ていただきましたが、いかがでしたか?

西村 野球ファンが試合を見ていると、「ここで代打はあり得ない、この継投は違うんじゃない」と考えたりする人がいますよね。野球に詳しくなってくると、監督目線になっていくファンが多いものです。実際にはなかなか思い通りにならないもどかしさもあるでしょうから、このゲームは面白いと思いましたね。

若田部 直近のデータを基に選手個人の能力を数値化していてより現実に近いところは、プレイする方にとっても楽しいですよね。あとはレジェンド選手がいて、世代を超えてオーダーが組めるというところもいいですね。僕らが昔野球ゲームをやった時には、その時の現役選手しかいませんでしたからね。

――お二人の現役時代ですが、先発ローテーションの中心として投げていました。その当時の先発投手と現在の先発投手は若干考え方が違うような気がするのですが、いかがですか?

西村 先発投手は完投を目指すという最後の年代が自分たちじゃないですかね。今は6、7回まででいいというイメージがありますよね。



若田部 そうですね。特に90年代前半は今のような分業制ではなかったですからね。少年時代から先発したら最後まで投げるという感覚が身についていましたし。当時は監督やコーチから見ても、中継ぎ陣には不安があった部分もあり、何人も投手をつぎ込むよりも一人に任せた方が安心ということもあったと思いますよ。

――西村さんは2年目の91年は29試合に先発して15完投、若田部さんも1年目の92年は27試合に先発して13完投ですね。当時は先発からすぐにストッパーにつなぐ継投でしたよね。

若田部 中継ぎ専門の投手はそんなにいませんでしたからね。先発で調子の悪い投手が中継ぎに降格するというイメージでした。

西村 今は、先発投手に対して100球メドということを言い過ぎているような気がします。キャンプでもそんな感じの練習をしていますね。逆に若田部は当時キャンプで1日300球ぐらい投げ込んでいましたね。

若田部 100球メドというのは、代える側にとっても代えやすい基準になっているんじゃないですか。

――お二人は完投する時はだいたい何球ぐらい投げましたか?

西村 120球ぐらいでしたかね。良ければ110球ぐらい。

若田部 僕も三振を取る投手じゃなかったので同じくらいでしたね。但し、ゲーム前に100球ぐらい投げていましたけど(笑)。そのぐらいの球数をこなさないと投げさせてもらえなかったですね。



――今は中6日が主流ですが、当時は中4、5日でしたよね?

西村 ヤクルト時代は中5日が基本で、4日がたまに入るという感じでしたね。

若田部 中4日が2回続くことはなかったと思いますが、中5日が基本で、中6日は本当に調子が悪い投手しかなかったですね。中4日が間に入ったりするので、同じ投手とはあまり当たらなかったですね。今は中6日で決まった曜日に投げることが多いじゃないですか?だから交流戦までは同じ投手と当たることが多く、エース級が先発でも、相手投手がいいと全然勝てなくなったりします。中5日にしておけばずれるのにと思う時はありますね。

西村 中6日で100球ですからね。自分たちは中5日で120球を投げていましたから、そういう意味では今は楽かなと思いますね。

若田部 あまり投げたくないんですかね(笑)? 勝っている時はいいけど、負けている時、特に連敗している時には早く投げて連敗から抜け出したいと思いますけどね。

西村 キャンプでも若田部のように300球投げる投手もいて、自分もヒジや肩を故障しても200球は投げていましたからね。シーズンで完投するためには、そういう準備をしないとダメだった。今はそれだけ投げる投手はいないよね。

若田部 いないですね。シーズンが終わっても、ずっと野球をやっている人は別ですが、通常オフは体のケアをして一度リセットするので、ゼロからのスタートになると思うんですよ。シーズンを通して耐えられる体力をつけるためのキャンプをしていましたね。

西村 今の先発投手は100球で急にガクッとくることも多いんだけど、あれは暗示に掛かってる感じがしますね。今は7回2失点で「ナイスピッチング」と言われて交代していますが、自分は7回で交代させられたらノックアウトされた気分でしたね。

若田部 それでも勝てればまだ救いですけどね。分業制の今でこそ、リリーフ陣が逆転されれば責任はそこにありますが、当時は試合に負けたら先発の責任と言われたこともありましたからね。

――今は先発の年間登板数も少なくなりました。

若田部 200イニングという投球回を目標にあげる投手もいますが、今の先発の登板数では限りなく難しいと思います。実は僕も達したことはなかったですけど。

西村 1回もないの?ブルペンで投げ過ぎたんだよ(笑)。

――若田部さんの最高は92年の193回1/3で、西村さんは91年に228回1/3、92年に200回2/3と、200回超えは二度あります。

若田部 その頃は130試合制でしたからね。
※今季は143試合

――西村さんは98年にダイエーにテスト入団しました。その時のダイエーの印象はいかがでした。

西村 いい選手は揃っているのに、負けても当たり前のように思っているのが印象でしたね。万年Bクラスで、負けるのも当たり前という空気がすごくありました。自分がヤクルトに入団した時の感じに似ているなと。

若田部 まさにそうでしたね。チームは負けても個人が良ければいいというのは確かにありました。入団して思ったのが、プロ野球はこんな感じなんだなと。王(貞治)さんが監督になって(95年)、「勝たなくちゃいけない」と言われたんですけど、選手にはなかなか浸透しなかった。それでも西武から秋山(幸二)さん、工藤(公康)さん、石毛(宏典)さん、西村さんと優勝経験者が入ってきて、ドラフトで小久保(裕紀)、井口(忠仁)、松中(信彦)、城島(健司)と、負け慣れしていない世代が入団してチームが変わってきました。

西村 先程も言いましたが、自分がヤクルトに入った時に似ていて、その時は広沢(克己)さん、池山(隆寛)さん、飯田(哲也)らいい選手は多かった。力はあったのに、チームは万年Bクラスで半分以上も負けていたんですよ。自分と一緒に入団したのが古田(敦也)さんで、このチームの雰囲気に馴染んだら弱いままなので、自分たちで変えようと熱く語ったことをすごく覚えています。勝つために野村(克也)さんを監督に呼んだわけですし。ダイエーの状況も一緒で小久保ら若手に「オレも肩がボロボロだけど、秋山さん、工藤さんが元気なうちにお前ら優勝できるから。今優勝争いできなかったらずっとBクラスで終わるよ」とずっと言っていました。それで若手がだんだんその気になってきましたね。若田部はのんびりしていましたが(笑)。

若田部 僕は王さんとは起用法などで意見が合わなかった部分もあったので、自分のポジションがなかったですね。98年の秋のキャンプから尾花(高夫)さんがピッチングコーチで来られて、ずいぶん気に掛けてもらいました。それが僕のターニングポイントでしたね。チームが変わったから自分も変わったというのはなかったですね。

西村 そういう人間なんですよ(笑)。

若田部 マイペースなんで(笑)。



99年から3年連続開幕投手の西村氏


――西村さんは98年10勝を挙げてカムバック賞を獲得。翌99年は開幕投手となり、チームも優勝しました。

西村 本当は工藤さんが開幕投手をやる予定だったんですけど、開幕1週間ぐらい前にふくらはぎを痛めて、「オレは開幕を断るから、準備しておけ」と言われたんですよ。それで開幕投手になったんですが、工藤さんは3戦目に先発しているので、実は開幕も大丈夫だったと思うんですよね。



――そういう経緯があったのですね。西村さんは6月まで4勝しましたが、故障でリタイア。一方若田部さんは10勝を挙げ優勝に貢献しました。

若田部 98年は全然野球をやっていなかったんで(7試合に登板)、99年は開幕ローテーションには入っていなかったんですけど、谷間で1、2度投げて結果がよくて5月12日に初勝利。それで完全にローテーションに入れてもらえて2ケタ勝てましたね。優勝は当然嬉しかったですけど、よくぞこのチームがここまで来られたなと、苦しい思いもよみがえってきましたね。

――シーズン前は優勝できそうな雰囲気でしたか?

西村 98年が同率の3位でした(21年ぶりのAクラス)。9月中旬まで優勝争いをしていて、その後ガタガタと負けての3位(首位と4.5ゲーム差)だったので、悔しさを持って臨んだシーズンでしたね。

若田部 99年のキャンプ前の全員で行う神社参拝の時に根本(陸夫・球団社長)さんが「監督は雲の上の人じゃないんだ」という話をして、その頃から監督と選手の距離が縮まったという記憶がありますね。

――そして00年もリーグ連覇をするのですが、この年も開幕投手は西村さんでした。

西村 この年はキャンプの時に言われたのですが、前年はあまり投げていないので一度断ったんですよ。でも「開幕投手は、チームメイトもファンも球団関係者も皆が納得する投手でなければならない」「開幕投手には格がいるんだ」と説得されて投げることになったです。あと、若田部がしっかりしてなかったから、開幕投手になったというのもありますね。

若田部 僕は監督とは意見が合わない部分があって、だから「格」という話があったんだと思いますよ。

西村 その時は永井(智浩)ら元気な若手もいたよね。

若田部 99年は若手の永井と星野(順治)、工藤さんと僕とリリーフの篠原(貴行)と5人2ケタ勝利でしたね。

――逆に00年は2ケタ勝利投手なしでの優勝でした。

若田部 4人(吉田修司、若田部、永井、篠原)が9勝の珍記録でしたね。でもこの年は5回途中でリードしていても、危ないと思ったら交代ということが結構ありましたから、先発陣は仕方がないですよね。それだけリリーフ陣に力もあったし、その流れで優勝が出来たんでしょうね。



――西村さんは、その年は結局開幕戦のみの登板でしたが、翌01年も開幕投手を務めました。

西村 これは00年に優勝した直後に「来年の開幕も頼むぞ」と言われたんですよ。でも自分は開幕戦の後手術をしていたので無理と言いました。キャンプ中もずっと行けるのか?と言われていて、やはり無理です、というのを何度も繰り返していました。開幕投手を務める(前年の)成績じゃないのに…。若田部がしっかりしなかったので結局投げましたが(笑)。

若田部 多分、監督が西村さんを好きだったんですよ(笑)。



――それまでヤクルト時代の92、93年、ダイエーの99、00年と西村さんが開幕投手をすると優勝するというゲン担ぎもあったのでしょうか?

西村 それはあったと思いますね。

――それではプロ野球も開幕しましたが、今年のソフトバンクはどう見ていますか?

西村 戦力的も強いし、一番上だとは思います。でもオリックス金子千尋西勇輝と投げ合って勝てる投手がいない感じですし、不安材料もありますね。

若田部 補強らしい補強をしていないのがどうかと思うのですが、戦力的には昨年と変わっていないので強いとは思います。注目は野手出身の秋山監督から投手出身の工藤監督になってどんな采配をするかですね。昨年のようにリリーフ重視で行くのか、先発投手を重視してリリーフ陣の負担を減らすのか。投手目線で打線を動かすと昨年とは違った野球が見られるのかなとは思いますが、これがちょっと悪い方向に出てしまった時の不安はありますね。

西村 投手出身監督だと、ヘッド格に野手出身のコーチを置くのが理想だと思うのですが、あえて工藤さんは置かなかったですよね。そこもポイントになりますね。



PROFILE
西村龍次 にしむら・たつじ◎1968年7月18日、広島県呉市生まれ。広陵高、寒川高からヤマハを経てヤクルトにドラフト1位で90年に入団。1年目から10勝を挙げ、91年は15勝をマークするなど入団以来4年連続2ケタ勝利で、92、93年の連続日本一に貢献。95年に近鉄に移籍、98年にはダイエーにテスト入団。その年10勝を挙げカムバック賞を受賞。99〜01年には3年連続で開幕投手を務めた。01年限りで引退。通算成績は、205試合、75勝68敗2セーブ、719奪三振、防御率3.76。

PROFILE
若田部健一 わかたべ・けんいち◎1969年8月5日、神奈川県鎌倉市生まれ。鎌倉学園高から駒沢大を経てダイエーにドラフト1位で92年に入団。1年目に10勝をマーク。99年には10勝を挙げ、九州でのホークス初優勝に貢献。00年もチーム最多の9勝をマークしチームも連覇を成し遂げた。03年にFAで横浜に移籍。05年限りで現役を引退。2ケタ勝利は4度。通算成績は、271試合、71勝75敗0セーブ、761奪三振、防御率4.15。

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