史上最年少の四番──。18歳4カ月で猛牛打線のど真ん中にどっかと座った土井正博氏。豪快なバッティングでパ・リーグの猛者を打ち砕いた。プロ野球の歴史を彩り、その主役ともなった名選手の連続インタビュー。土井氏が過ごした古き良き時代とは──。 取材・構成=大内隆雄 写真=BBM 大阪球場の南海-西鉄戦が見たくてアイスクリーム売りのアルバイト
土井氏は1943年(昭和18年)の生まれ。小学校入学は50年である。プロ野球が2リーグに分かれた年だ。日本中がプロ野球の熱気におおわれていた。そういう時代に大阪で小学生になった野球好きの少年は、どんなふうに成長するのか。
土井氏は、まず、阪神の選手の顔が印刷されたメンコ集めに夢中になった。
「別当さん(別当薫外野手、50年当時はもう毎日に移っていた。のち近鉄監督として土井氏を18歳の四番打者に仕立て上げる)のメンコがやっぱり一番人気がありましてねえ。せっせと集めましたよ。土井垣さん(土井垣武捕手)のも集めましたね。阪神の選手ばかりでした」
しかし、土井少年は、徐々に変化してゆく。甲子園球場よりはるかに近い、というより近所のような南海の本拠地・大阪球場の方が気になり始める。中学に入学した56年は、南海-西鉄戦の人気が最高潮。大阪球場のHL戦は必ず満員の大盛況だった。 それはすごかったですよ。中学生の私はこの試合を見たくて仕方がない。でも、いつも満員で入れない。あるとき、球場でのアイスクリーム売りのアルバイトの話が耳に入った。これだ!と早速申し込んだ。大阪球場というのは、スタンドの傾斜がきつくて危ないんですよ。すり鉢状で。でも、そのスタンドの上から眺めるナイターの美しさといったらなかった。アイスクリーム売りなんて忘れちゃう。いえ、初めから一生懸命売ろうなんて気はないんです。ただ、試合が見たいだけなんですから。だから、本数がいっぱいあるのは邪魔くさい。友達に「オイ、オレの分やるよ」と押しつけてしまう(笑)。
スタンドの下まで行くと、選手の顔がハッキリ見える。西鉄の豊田さん(
豊田泰光遊撃手)は、打者に関係なくなぜかいつも土と芝生の切れ目のところに立っている。そのうち、理由が分かりました。カクテル光線がちょうどいい角度で豊田さんの顔に当たるんですよ、そこだと。プロは、そこまでやるんだ、と感心したりして。
中学に入ると、私はエースで四番。それから大鉄高に進むのですが(59年)、1年秋に、私はプロのスカウトの人の目に留まる一打を放ちます。大阪の強豪校・八尾高の1年生で、
久野剛司(のち同大-阪神)という好投手がいましてね。大阪大会を勝ち抜いて、夏の甲子園でもベスト4まで行った。たしか、久野はアメリカ遠征チームに選ばれたんじゃなかったかなあ(久野は選ばれず、八尾から選ばれたのは、岡部高明捕手)。その年の秋の大阪大会、これはセンバツの予選みたいなものです。だからプロの関係者も会場の藤井寺球場に集まってきた。
大鉄はここで久野の八尾と準決勝で当たり、私は久野からホームランを打ったのです。これを近鉄のスカウトの根本さん(
根本陸夫氏、のち、
広島、クラウン、
西武、ダイエーの監督を務め、西武管理部長時代には選手獲得にラツ腕を発揮した)が見ていたんですね。それからですよ、根本さんが家に日参するようになるのは。このへんが根本さんのすごいところです。
“根本マジック”で近鉄入団のレールに。別当監督の手で18歳の四番に
私の方はと言えば、2年生(60年)になって、センバツに出場して1回戦敗退。これじゃいかんと、夏の大阪大会はみんな必死でやりました。で、大阪大会は、大鉄は圧倒的な力で3回戦まで突破した。甲子園まではあと4試合です。当時の大鉄は、のちプロに3人も入るほど投手陣が豊富でした。4回戦の相手は阿倍野高。ここで監督さんが「お前でも勝てるワイ」と外野手の私をマウンドに立たせたのです。ところが負けちゃった。これは具合が悪いですよ。なんとなく野球部にいづらくなりましてねえ・・・
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