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第23回 掛布雅之「逆にホームランの短縮がヒットだと思います」

 



ある意味、プロ野球が最もプロ野球らしい時代を駆け抜けたスラッガー。第4代“ミスタータイガース”掛布雅之氏。阪神唯一の日本一でも主軸として貢献するなど、そのプレーは野球ファンの脳裏に強烈に焼き付いている。プロ野球の歴史を彩り、その主役ともなった名選手の連続インタビュー第23回。掛布氏が輝かしい自らの野球人生を語る。
取材・構成=大内隆雄、写真=BBM

サードはチームの顔が守るポジション。その顔にならねばと自然に思った


「掛布氏は最後の三塁手である」と言ったら読者はけげんそうな表情をするかもしれない。少し説明すると、昔の野球少年は、何よりもまず三塁手にあこがれた。三塁手が野球選手として最高のポジションであると、だれもが思っていた時代があったのである。

これは巨人長嶋茂雄が入団して1年目から大活躍したことと大いに関係があった。もっともその前から水原茂(巨人)-藤村富美男(阪神)という系譜があり、人気チームの巨人と阪神がプロ野球初期からサードに大スターがいたことが、その下地としてあった。そこに長嶋という決定打。さらに西の野武士軍団、西鉄には中西太。阪神には藤村の次の三塁手、長嶋より守備力は上と言われた三宅秀史がいた。大洋にも1年目から本塁打王となった桑田武がいた。東から西まで、サードには人材がそろっていた。

野球少年たちが、サードにあこがれるのは、もっともだったのである。

しかし、いまのプロ野球の三塁手に、野球少年は、それほどの思い入れはないのではないか。いまの三塁手はどちらかというと“軽め”のポジション。打順で表現すれば、二番か七番ぐらいの比重。主軸を打つ三塁手がいても、その守備力はホメられたものではない、という場合が多い。

昔は、サードは打も守もパーフェクトでなければならなかった。もちろん現実には、そんなサードはなかなかいないのだが、サードならそうあるべきだというのが共通認識になっていた。いわば掛布氏は、そういう時代の最後の打も守もパーフェクトな三塁手だった。


 私たちの時代は、サードはチームの顔が守るポジションという雰囲気がありましたね。あこがれの場所でした。サードをやれば、自分もチームの顔になりたい、ならなくてはという気持ちに自然になりました。とにかく私は長嶋さんにあこがれて野球をやってきたワケですから。巨人には王さん(貞治一塁手)もいて、この2人が理想だった。内野手がチームの中心である、という時代でしたね。一塁手は、外国人選手が入ることも多かったのですが、サードだけは日本人の聖域でした。このへんはいまの人には、理解が難しいかもしれませんが。

 だから、ONにあこがれてプロに入って、サードを守ってONの巨人と戦い、それを倒す、ということができたのは夢のようなことでしたね。のちには四番も打ちましたし。私は1年目(74年)から83試合も出してもらい、三塁を40試合守っています。この年は、長嶋さんの現役最後の年ですから、巨人戦では長嶋さんとサードを守り合ったワケです。これはいま思うと大変なことですよね。私はとにかくプロでやれるだけで良かった。それで満足でした。もうオレのゴールだ、ぐらいの気持ちでした。それが1年目からONのいる巨人戦に出られたんですからねえ。

この腕とバットが体に巻きつくようなスイングでホームランを量産した。捕手・山倉[巨人]



本来中距離打者もチーム事情で「四番で本塁打を打つ」が仕事になっていく


 私は指導者に恵まれましたね。1年目の金田(正泰)監督は、早くから私の能力を評価していたらしいのですが、キャンプでは、あえて甲子園の居残り組にして「安芸では球拾いだろう。それなら下で掛布に好きなだけ打たせよう」という配慮をしてくれた。これが良かったのです。

 オープン戦に入る段階で、藤田平さんと野田征稔さんが出られない状況になり、下から内野手を1人上げることになり、私が選ばれました。大阪球場で南海との二軍の試合をやって2安打して甲子園に戻ってきたら一軍のオープン戦をやっていたので、そのまま代打で出る、なんてあわただしいことをやった記憶があります。金田さんに認めてもらえたのは・・・

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