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第35回 遠藤一彦「先発投手なら負けても完投すべき」

 

スラッとしたスマートな体型から、キレのあるストレートと鋭いフォークで打者を翻ろう。ホエールズの主戦として先発、抑えに投げまくった遠藤一彦氏は熱狂の80年代を盛り上げた快腕だ。プロ野球の歴史を彩り、その主役ともなった名選手の連続インタビュー。第35回は球史に残るフォークボーラーに聞いた。
取材・構成=大内隆雄 写真=BBM



今回の遠藤一彦氏に関しては、ちょっと自慢したいことがある。遠藤氏が福島・学法石川高から東海大に入学した1974年の首都大学野球秋のリーグ戦で初勝利をマークしたとき(神宮第二)、取材して原稿にしているのだ。「首都にも江川現る!」が東京タイムズ紙の見出し。遠藤氏のことを大きく取り上げたのは、取材・構成者が初めてではなかったか。当時、作新学院高から法大に進んだ怪物・江川卓投手(のち巨人)が、大学野球の話題を独り占めしていたが、遠藤氏のボールを見て「これは速い!」と驚き、先のような見出しをつけてもらったのだった。遠藤氏は、このことをすっかり忘れていたが(当たり前だ。もう40年も前のことである)、スピードに関しては、意外なことを語ってくれた。

140キロがやっとだったストレート
それでもフォーク、その変形のスプリット、チェンジアップで生き抜く


 あのころは全然、速くなかったのです。135、6キロ出ていたかどうかですよ。プロに入っても140キロ台前半がやっと。どうして速く見えましたかねえ(蛇足ながらプロに入ってからも取材・構成者には速く見えた。当時、スピードガン表示のある球場は少なく、速い、速くないは、ネット裏からいろんな投手のいろんなボールを長い間見てきたことによるカンで判断していたような気がする。その取材・構成者のカンによると遠藤氏は速いピッチャーに分類されたのだった。実際、打席の打者もそう感じたに違いないのだ。そうでなければ、134勝、58セーブの成績を挙げられるハズがない)。

 そういうスピードですからプロでやれる自信なんかまるでなかった。だから、早々と東京ガスに就職を決めていたのです(3年秋)。オープン戦で相手していただいたりしていましたし、なじみがあった。東京ガスの納会に招かれて、「みなさんと都市対抗に出られるよう頑張ります」なんてあいさつまでしたんですから(笑)。ただ、4年秋の明治神宮大会で決勝まで行き(対法大)、知られたことで、プロ側も動き始めたのかもしれません。もっともこの大会とこの試合は江川と原(辰徳三塁手、当時東海大1年、現巨人監督)のものでした。3対5で負けましたが、原は江川からホームランしています。

 それはともかく私も在京のセ・リーグの3位指名までならプロでやってもいいかな、という気持ちにはなっていました。そこで大洋3位というので決断しました。ただし、ストレートとカーブしかないピッチャーでしたから、自信なんてありませんでした。フォークですか? 2年目のキャンプから投げ始めましたが、なかなかモノにならなくて。私は手が小さいので、杉下茂さん(中日ほか)のように自在にフォークを投げるというワケにはいきませんでした。いつだったか杉下さんと手の大きさを比べたらひと関節ぐらい違うんです。ガク然としましたよ。

 それでも私は、自由自在に投げられないまでも、いろいろ工夫はしました。私のフォークはシュート気味に落ちるので、右打者にはさばかれることが多かった。それで・・・

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プロ野球80年の歴史を彩り、その主役ともなった名選手たちの連続インタビュー。

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