幾度となく自身の野球人生に終止符を打とうとした。だが、野球の神様が、いつもマウンドに導き、35歳の今なお白球を追い続けている。そして今季は「志半ばだった」と話す“先発”の位置へ招かれた。「僕の野球人生、ここでやるしかない」──。Bsの18を背負う男が、一軍の真っさらなマウンドを目指して、腕を振り続ける。 文=達野淳司(デイリースポーツ)、写真=BBM 35歳、
オリックスのチーム最年長投手は、二軍が練習する舞洲サブ球場にいた。開幕は二軍で迎えた。だが、プロ12年目、
岸田護に過度な悲壮感はない。汗を流す彼の周りには、いつも笑顔がある。自らの出番が訪れるその日に向け、テーマを持って取り組む。その姿は若手投手の見本であり、首脳陣からの信頼を得る理由となっている。
そんな彼は、
山本由伸、
山崎颯一郎ら、高卒ルーキーの投球に目を細める。
「高校からプロに入るなんて、すごい。ものすごい才能の持ち主だと思う」。プロ通算411試合、44勝30敗、63セーブ、62ホールド。先発、中継ぎ、抑えと、あらゆる役割をこなしてきたベテランは、実績を誇ることもせず、若手に羨望のまなざしを送る。
謙そんではなく、本心だった。大阪・履正社高から東北福祉大、そして社会人・NTT西日本とエリートコースを歩んできたかに見えるが、プロ野球を意識したのは社会人に入ってからだという。その野球人生は、もし本当にいるとしたならば、野球の神様に魅入られたかのような不思議な経路をたどってきた。
何となく追いかけた白球。常にやめるつもりも……
岸田が野球と出合ったのは小学1年のときだった。場所は大阪府吹田市。あるとき、何気なくグラウンドを見たら仲良しの友人がボールを追っていた。
「仲良かったのに、野球をやってるのも知らなかった。じゃあ、僕もって入った。野球のルールも分からない。打ったらどっちに走るのかも知らなかった」 それまでレスリングを習っていたが、野球に転向。天性の体の柔らかさを見込まれ投手になった。以来、ずっと投手を続けている。チームは強かった。それも出場した20大会のうち16度が優勝、80勝5敗とズバ抜けていた。当然、練習は厳しく、監督も怖かった。
中学に入学するころ、シニアチームからいくつも誘いが来たが、父の「硬球を握るには早過ぎる」という方針から断り、地元の中学校で軟式野球部に入った。
「近所の友達がそのまま中学校に行って野球をやったという感じ。特別強くもない。本当に部活でした」 楽しい中学生活の終わりごろ、それでも岸田のところには、強豪校からの誘いがいくつもきた。その中から履正社高に決めた。
「ある高校の練習見学に行ったら、そこの監督さんから『履正社やったら絶対甲子園行けないぞ。ウチに来い』と言われたんです。でも僕は甲子園に行きたいとは思ってなかった。そもそも高校で野球をするつもりもなかった。本当は公立高校に行きたかった。男女共学の。高校生活を楽しみたかったんです」 残念ながらその願いは叶わず、「家から自転車で通える」という理由で履正社高に決めた。ところが、入学して間もなく先輩たちの頑張りで甲子園に連れて行ってもらった。岸田も出場はなかったがベンチ入り。思ってもみなかった聖地の土を踏むことができた。
だが、これが最初で最後の甲子園だった。チームは「かすりもしない」と話すとおり、上位に勝ち上がることもなかった。3年の夏が終わると「手に職をつけたい。スノーボードのインストラクターになろう」と思い立った。専門学校への進学を真剣に考えていた。野球もやめるつもりだったという。
理由があった・・・
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