2001年、かつての横浜高・松坂大輔(現ソフトバンク)に勝るとも劣らない怪物投手が現れ、甲子園を沸かせた。熱視線そのままに、華々しく幕を開けた寺原隼人のプロ野球人生。不振やケガに、2度のトレード……“試行錯誤”を経て剛腕はいま、自らが投げ込む150キロの剛速球を、冷静に見つめる。 文=田尻耕太郎(スポーツライター)、写真=湯浅芳昭、BBM プロ16年目を迎えた怪物投手
今の野球界において、150キロを投げる投手は珍しくなくなった。アマチュアですら全国各地から剛腕発見のニュースが飛び込んでくる。
時代は変わった。先日、ソフトバンクの
和田毅がこんな話をした。
「僕らが高校生のころは140ちょっと投げればプロ級と言われて話題にしてもらえた。それが甲子園で、大輔(松坂大輔)と渚(
新垣渚)がいきなり151キロですよ。とにかくもう、別格でしたね」
それが1998年夏のこと。150キロ級投手など10年に1人、いやそれ以上の逸材と大いに騒がれた。
だが、わずか3年後、甲子園に再び怪物投手が現れた。
それが寺原隼人だった。
21世紀最初の夏。宮崎・日南学園高のエースが、甲子園の主役となった。2001年8月16日、2回戦の玉野光南高(岡山)戦だ。すでに初戦の四日市工高(三重)戦で151キロをマークして、松坂と新垣が名を連ねていた当時の甲子園記録に並んでいた。プロ野球のみならずメジャー・リーグのスカウト、そして日本中の野球ファンからの熱い視線を一斉に集めた中、当時17歳の寺原は、この試合は中継ぎとしてマウンドに上がった。
それは、自身2イニング目の6回だった。1点を取られ、なお二死一、二塁のピンチ。すると寺原の本能に火がついた。相手バッター、一番の右打者への4球目、外角へのストレートがうなりを上げる。計測した球速は154キロ。甲子園最速記録を一気に更新した。
「懐かしいですね。あのころはまだ球速表示が場内のスコアボードでは出ていなくて、テレビだけでした。だから大歓声とかなくていつもどおり。ただ、ベンチに戻るとき、スタンドのおじさんが『154キロ出とったぞ』と教えてくれて知ったんです」 ネット裏はすでにざわついていた。メジャー球団のスカウトのスピードガンでは・・・
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