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野球浪漫2019

日本ハム・姫野優也 野球をやめられなかった男 「まだ自分は何もやり切っていないから」

 

高校時代に3度の脱走、名門高からの編入。常に野球をやめることだけを考えていた男の遠回りした紆余曲折の野球人生。それでも周囲に支えられ、若き才能はプロの舞台にまでたどり着いた。あのころがあったからこそ、いま純粋に野球と向き合える自分がいる。
文=井上陽介(スポーツライター) 写真=毛受亮介、BBM


名門高に進学も脱走


 16歳の初夏、姫野優也は宿命から背を向けて自転車のペダルをこいでいた。高校野球の名門・天理高へ進学したばかりの2013年。身体能力の高い有望な1年生は、まだまだ精神的に未熟だった。入学してから3カ月が経ったころ。仲間2人と深夜に寮を抜け出してママチャリで実家のある大阪・枚方を目指した。「こんなところにいても時間のムダだと思った」。後に日本ハムからドラフト指名されることになる男は後先を考えず、とにかく野球から逃げようとしていた。

 ヤンチャな若者は子どものころから誰もが運動能力の高さを認める存在だった。まずは6歳から水泳を始めた。「オリンピック選手を目指していたんです。最初は水泳一本でやるつもりでした」。平泳ぎが得意だった。天性のスポーツ万能型。いきなり好タイムを出して、地元のスイミングスクールから選手コースへの入部を勧められた。2年間にわたって断り続けたが、小学3年のときに意を決して飛び込んだ。

「まずはジュニアオリンピックを目指して、1年後に出場できた」。周囲の見立ては確かだったが、当の本人の気持ちは水泳一本とはいかなかった。早々に目標を達成してしまって漠然と次にやりたいことが頭の中に浮かんだ。「水泳は個人競技、みんなでやるスポーツをやりたいと思った。野球も好きでした。お父さんが野球好きなのも知っていた。水泳をやめるとなったときも周りからすごく止められたけど、野球をやってみたかった」。従兄弟もいた軟式の西牧野アタックスへ入団した。

 野球は幼少期から慣れ親しんではいた。父・勝之さんとキャッチボールをしたり、バッティングセンターにもよく連れていってもらった。小学生時代は主に投手。コントロールに不安があったが、スピードだけは突出していた。中学進学と同時に名門の枚方ボーイズに誘われて入団。投手としては最速で140キロを超えたが、制球面の課題は変わらず。そんな背景もあって強肩を生かして外野を守ることが多くなり、名門の天理高からも声がかかった。

 即決で越境進学を決めた。「天理と書かれた紫色のユニフォームってカッコいいじゃないですか」。あこがれも後押しとなり、枚方から直線距離で約30キロ離れた名門高へ。寮生活も始め、両親からは毎月5000円とカップラーメンなどが仕送りされていた。1年生ながらゴールデンウイークのころまでは3年生に交じって試合にも出ていた。順調に船出したように見えた高校野球生活だったが・・・

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