かつて甲子園を沸かせた逸材も、プロ入り後は度重なるケガもあり、輝きを放つことができないまま30歳を迎えようとしている。ユーティリティー、そして代打の切り札。野球を続けるために、生きる道は何か。もがき苦しみながらも、前へと進む歩みを止めることはない。 文=長井毅(スポーツ報知) 写真=内田孝治、BBM 投手への未練
かつてのドラ1は自分の生きる新たな道を進もうと、必死で汗を流していた。酷暑が近づきつつある6月初旬。
高濱卓也は二軍の
ロッテ浦和球場にいた。右足首にはテーピングが巻かれている。
「一軍にいたときは内緒にしていたんですけどね」。古傷に痛みが出ながらも我慢してプレーを続けていたことを明かしてくれた。
今季は5月8日に一軍初昇格を果たすと、翌9日の
西武戦(県営大宮)、延長11回一死二塁の場面に代打で登場。今季初打席を踏むと、
マーティンの低めの変化球に体が反応した。態勢を崩されながらも右手一本で振り抜いた打球は、左翼を越える決勝の二塁打となった。
「バットに当てれば何かあると思った。ちょっと泳いだのでどうかなと思ったんですけど、強い気持ちで振りにいったので、その気持ちの分、飛んでくれた」 久々のヒーローインタビューでは自然と口調にも熱がこもった。ファームでは先発起用も多かったが、一軍での代打起用を見据え「二軍でも一打席目を大切にしていた」ことも土壇場で生きた。
「こういう結果が出て、みんなが喜んでくれてうれしかった」と大粒の汗を拭った。
佐賀市立城南中では投手として名を広め、県内外から60校ほどの誘いがあった。その中には大阪桐蔭高やPL学園高といった関西の強豪校の名もあったが、
「練習が一番きついところでやりたい」と選んだのが横浜高だった。言わずと知れた“平成の怪物”
松坂大輔らを擁し、1998年には甲子園春夏連覇を達成した強豪中の強豪。全国トップクラスの練習の厳しい環境でレギュラーをつかめれば、「プロに行ける」と踏んで名門の扉をたたいた。
ハードなメニューに、がむしゃらについていく毎日。「あれだけは2度とやりたくない」と・・・
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