野球エリートが経験した苦悩の日々。しかし、挫折があったからこそ気づけたこともあった。性格、考え方など“人”として大きく変わっていく中で、“選手”としても成長を見せている。 文=福谷佑介(スポーツライター) 写真=湯浅芳昭、BBM 突如、悪循環の渦へ
思わず涙した。5月2日、本拠地ヤフオクドームで行われた
オリックス戦のこと。今季初勝利を挙げた
大竹耕太郎は、お立ち台で人目をはばからずに泣いた。
ようやくつかんだ今季1勝目。隣に並んだ
今宮健太が「勝ちをつけてあげられなかったのは僕たちの責任。大竹には感謝です」と語ると、瞳から涙があふれ出た。
「キツかったですけど、粘り強く投げてきて、ああやって今宮さんに言ってもらえてうれしいです」。それまでの苦闘の1カ月間がちょっとだけ報われた瞬間だった。
好投を続けながらも、白星に恵まれなかった。開幕から4試合で失ったのはわずか3点。30回1/3を投げ、防御率は驚異の0.89をマークしていた。にもかかわらず、0勝1敗。気丈に振る舞ってはいたものの、やはり勝ち星に恵まれない日々は苦しく、今季5度目の先発で手にした念願の白星は大きな1勝になった。
大竹耕太郎は熊本県熊本市で、姉1人を持つ2人姉弟の二男として生まれた。幼少期は、スポーツが好きだった父の影響で、野球だけに限らず、サッカー、テニス、水泳、卓球、ゴルフまでプレーしていた。
「周りの友達にも野球が好きな子どもが多かったので、自然と野球をやるようになりました」。
小学校4年生のとき「田迎小野球部」で本格的に野球を始め、託麻中では全国大会にも出場。高校は熊本県内有数の進学校で、野球の名門校でもある済々黌高に進んだ。エースとして2年夏、そして3年春と甲子園に出場。大学は東京六大学の名門である早大へと進んだ。
1年春からリーグ戦で起用され、1年秋には現
日本ハムの
有原航平(当時4年)に代わって開幕投手も任された。2年時には春秋と2季連続優勝、さらには全日本大学野球選手権でも優勝した。誰がどう見ても、エリート街道まっしぐら。
「甲子園も出ましたし、挫折という挫折もなく、それなりにやれば、それなりの結果が出ていた」。自身でこう振り返るほど、順風満帆な野球人生だった。
その歯車が突如として大きく狂い出す。野球人生で初の大きな挫折。それは3年のころにやってきた。
「顔、死んでましたもんね。本当にしんどかったですし、野球をやめることだって考えました」 今になって振り返っても表情は曇る。それほどまでに苦しい・・・
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