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野球浪漫2019

中日・阿部寿樹 誰かの言葉で 「あの一言が自信になりました」

 

自信などなかった。夢も控えめだった。けれど、いつも誰かが自分を見てくれていた。いつも誰かに支えられてきた。信じてくれる人たちの期待に応えるため、変わる覚悟は、野球人生を変えた。
文=玉野大(スポーツライター) 写真=榎本郁也、BBM


井端からの一言


 阿部寿樹は岩手県一関市で生まれ、18歳まで育った。だからなのか、それとも偶然なのか。東北人に特有と言われる粘り強さがある一方で、物事に臨む態度は控えめだ。プロ野球選手でいながら、自分に自信が持てずにくすぶっていた。二軍と一軍を往復するエレベーターに何度も乗っていた2018年の3月、話したこともなかった、あるコーチに呼び止められた。

「おい、ファーストミットなんか持たなくっていいだろ」。巨人井端弘和内野守備走塁コーチ(当時)だった。3月にナゴヤドームで行われた、侍ジャパンとオーストラリアの試合。昼間は中日がオープン戦を戦っていた。試合が終わり、グラウンドを明け渡す。そのわずかな時間で、侍ジャパンを兼務していた(現在は専任)井端コーチからこう言われた。

「そうそう。覚えていますよ。阿部がファーストミットを持ってウロウロしていたんです。ということはビシエドがいるんだから内野の控え、ユーティリティーってことじゃないですか。いや、敵チームから見て、阿部は打つ。そう思ってました。なんというか、どんなピッチャーにも同じように間(ま)を取れるんですよ。崩されっぱなしにならない。バットが出る角度もいい。もったいねえなあ。そう思ってたんで、つい言っちゃったんですね。でも、僕は見る目には自信がありますから」

 敵に塩を送ったわけでも、適当に言ったわけでもない。野球人として、野球人を見る審美眼。レギュラーを狙える。磨けば光るのに。しかし、言われたほうは自分が宝石だとは思えない。たぶん、石ころだと思っていた。

「もうビックリですよね。すれ違いざまにポンって感じでケツをたたかれたこともあります。『おまえは打てるよ』って。エーッ? あの井端さんがオレにそんなこと言う? テレビで見ていた人と直接話すのって、今でも不思議な感覚がするんです。でも、あの一言が自信になりました」

 純朴ゆえに「あの井端さん」の言葉が胸に刺さった。そんな阿部は姉、兄がいる末っ子として生まれた。父・勇一さんは生コンクリートを運ぶミキサー車の運転手だった。自宅の敷地内にあるビニールハウスの中に、ネットを張った「屋内専用練習場」でティー打撃をするのが、阿部父子の日課だった。

「中学までは軟式だったんですが、早くから木のバットで硬球を打っていました。父が竹を切ってきて、長いまま振ったりもしていましたね。重いバットを振っておけ。そういうことだったんだと思います。本当に父は野球の貯金をいっぱいつくってくれたんです」

 必死に野球に打ち込んではいたが、まだ何者でもなかった。一関一高に進み、3年春の東北大会を制したが、最後の夏は2回戦で負けた。リリーフで出てきた花巻東高の1年生左腕に、ねじ伏せられた。

「それが菊池(菊池雄星、現マリナーズ)だったんですね。あのときで145キロは出ていました。岩手にそんなピッチャー、いませんでしたもん」。甲子園とは無縁のまま高校野球を終えたが、東北大会優勝校ということもあって明大へ進む道が開けた。入ってみれば野村祐輔(広陵高、現広島)がいた。甲子園準優勝投手。「テレビで見たあの野村」だけでなく、同学年には甲子園組がゴロゴロいた。「中でも野村は別格ですよね。甲子園組とはなかなか話せなかったですもん。せっかく明治に入ったんだから、何とか神宮で1回出たい。そう思ってやってました」。阿部はそう話すが、1年の秋からリーグ戦に出場し、3年からはレギュラーの座もつかんだ。しかし、ついに公式戦では1本も本塁打を打つことなく、大学野球も終えた。

 卒業後は東北に帰り、硬式野球部を持つ銀行への就職を視野に入れていた。そんな人生設計の根本からの変更を余儀なくさせた・・・

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苦悩しながらもプロ野球選手としてファンの期待に応え、ひたむきにプレーする選手に焦点を当てた読み物。

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