松坂世代でも残り少ない現役選手となった。所属した巨人、DeNA、そして現在の楽天で受けた、3年連続の戦力外通告。それでも自分の伸びしろを疑わなかったからこそ、来季のプロ18年目につながった。 文=金野正之(河北新報社) 写真=井沢雄一郎、BBM 山あり谷ありの野球人生
通算500試合登板は救援投手の勲章だ。1年50試合で10年、安定して働き続けた証明だからだ。あまり知られていないが、先発の通算100勝到達者数と比べても少ない。
9月15日の
オリックス戦(京セラドーム)、プロ17年目の
久保裕也が史上101人目として「500」に到達した。記念日にもベテランらしい火消し役をした。
先発の
石橋良太が2点差を許した直後の6回二死三塁、
平石洋介監督は同学年で「松坂世代」の背番号91を送り出した。先頭の
宗佑磨は丁寧に低めやコーナーを突いた末に四球。さらに二盗を許し、二、三塁とされたが、すべては久保の想定内。
「本塁さえ踏ませなければいい」。
淡々とした表情で再度打席の
福田周平に対する。カウント2-1からの4球目、内角高めのへの140キロをセーフティースクイズ気味に三塁線へ転がされたが、ばたつきもせずボールをさばき一塁へ。一息ついてベンチへ戻るところでようやく表情を崩した。
「500」の祝福プレートを手渡され、掲げてみせた。
「山あり谷あり。ここまでいろいろがあった」。感慨深そうに振り返り、支えてくれた人たちを思い浮かべた。
「そんなに野球がやりたいんだったら、自分から行動に出なよ。家で待っていても何も始まらないわよ」
2016年師走、4歳上の妻に一喝された。前年の巨人に続き、オフにDeNAから戦力外通告を受けた。11月にはトライアウト受験もした。だが身を寄せる先がない。携帯電話の着信をそわそわ気にして、毎日だらだらと引きこもっていた。
「いよいよどこからも誘いがないな」。
決して「巨人」のブランドを鼻に掛けるほうでなかった。ただプロで14年生き抜いた自負はあった。ふと気づいた。ある種、勘違いのようなプライドも混在していたことに。
「どこかの球団から何かしら誘いがあるだろう、と甘く構えていた」。
数日後、久保は・・・
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