週刊ベースボールONLINE

野球浪漫2019

広島・ケムナ誠 潮目をつかんで波に乗れ 「大学時代は三振にこだわっていましたが、プロでは伸びるストレートより、ボールを動かして内野ゴロです」

 

出身は米国ハワイだが、育ったのはカープのキャンプ地・日南。そう聞けば、今、カープで投げていることは必然のようにも思える。しかし一方で、本格的に野球に取り組んだのが高校2年から、と聞けば、その少年がプロ野球選手になり、一軍にたどり着くことは、普通の頑張りではできるはずもなく、いくつものチャンスを逃すことなく生かしてきたことが分かる。潮目をつかみ、波が来たなら逃さない。それが彼の生きる術だ。次の波も、必ずつかむ。
文=坂上俊次(中国放送アナウンサー) 写真=湯浅芳昭、BBM


入部したのは「黒潮部」


 あのころのキャンプ地はのどかだった。猛練習を終えた選手たちが徒歩で宿舎に向かう。自転車で、選手たちが下り坂に任せて移動する。そんな光景が日常だった。サイン待ちの行列もなければ、週末のツアーバスが踏切を待つこともなかった。

「小さいころ、練習帰りの栗原健太選手(現中日コーチ)に握手してもらったことがあります」。5歳から、キャンプ地である宮崎県日南市で育ったケムナ誠はカープというチームに親しみを持ちながら成長していった。大学入学前には、カープ選手御用達の直ちゃんラーメンでアルバイトをした経験もあるのだから、カープのユニフォームを着てマウンドに上がる今の姿には、運命的なものを感じずにはいられない。

 しかし、彼は運命に身を任せてきただけではない。自分の手で道を切り拓(ひら)き、決断を繰り返してきた。ケムナが育った日南市は、黒潮の影響で年間を通して海水温が高く、サーフィンのメッカとしても知られている。彼が県立日南高校で最初に門をたたいたのは野球部ではなかった。黒潮部。サーフィンを中心としたマリンスポーツを活動の中心に据える部であった。もちろん、少年時代から海には親しんできた。「一通り波にも乗ることができて、大会に出場したこともあります」。身体能力は高く、前途に不安などなかった。

 それでも、ケムナの頭の片隅には、常に野球があった。小学校6年生から始め、中学の3年間も野球に没頭してきた。その姿を見てきた父・ブルースさんは、息子に熱い言葉を送った。「サーフィンは何歳になってもできるぞ。今しかできないのは、野球かもしれない」。心を動かされたケムナは、高校2年のとき、再びグラブとボールを手にすることを決意した。

 野球部監督の日高靖は体育教員でもあったため、早い段階からケムナの素質は感じ取っていた。「体育の授業でソフトボールを見たときに、腕が長くて使い方が柔らかく、やはり野球部だろうなと。体の線は細かったですが、伸びしろは大いにあると思いました」。

 野球部の日々で、日高はもう一つのケムナの資質を発見した・・・

この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。

まずは体験!登録後7日間無料

登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。

野球浪漫

野球浪漫

苦悩しながらもプロ野球選手としてファンの期待に応え、ひたむきにプレーする選手に焦点を当てた読み物。

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング