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野球浪漫2020

ロッテ・西野勇士 苦労人が再び放つ光 「育成で契約することの意味は分かっていた。でも、やはり現実は思った以上に厳しかった」

 

育成からのスタート、想像以上に厳しかった現実、侍ジャパンのユニフォームに袖を通すまでになった成長、右ヒジの痛みとともに訪れた大きな挫折と苦悩の日々。まさに紆余曲折の野球人生を歩んできた苦労人が、再びまばゆいばかりの光を放とうとしている。
文=梶原紀章(千葉ロッテマリーンズ・チーム広報) 写真=小山真司、BBM

通算88セーブを誇るかつての守護神は苦しい時期を乗り越え、復活の昨季を経て、再び先発として輝きを取り戻そうとしている


苦しかった“育成”の日々


 2014年11月15日、歴史的なマウンドに西野勇士は立っていた。東京ドームでの日米野球第3戦。9回を打者3人で抑えると、先発の則本昂大(楽天)、2番手の西勇輝(当時オリックス)、3番手の牧田和久(当時西武)とともに大観衆が見守るお立ち台に呼ばれた。日本を代表する4投手によるリレーでノーヒットノーラン。MLB選抜チームを相手に日本として初の偉業をやってのけた。侍ジャパンのユニフォームが輝いて見えた。

「入団したときのことを考えると信じられないです。あのころは下ばかり向いて歩いていた」

 14年は31セーブで救援失敗はわずかに3度だけ。日本を代表するストッパーに上り詰めた。だが、育成ドラフト5位で富山から18歳で上京してきた若者が、そこに辿(たど)り着くまでの道のりの間には、何度も心が折れそうになる日々があった。

「覚悟していました。育成で契約することの意味は分かっていたつもりです。でも、やはり現実は思った以上に厳しかったし、つらいこともたくさんありました」

 遠い昔のことのように08年12月に行われた入団会見を思い返した。ひな壇に支配下選手が並び、その左横に育成選手8人がまとめて座っていた。マスコミからの取材も当然、支配下選手に集中する。会見の場から“差”を感じざるを得なかった。一番の違いは待遇。支配下選手はロッテ浦和寮。育成選手はそこから自転車で15分ほどの距離にある築40年以上経つ施設で過ごした。朝と夜、食事のときだけ寮を訪れ、また自転車で戻る。夕食の帰り道。夜風に吹かれながら、悲しくなった。寮の部屋から照らされる明るい光、ほかの同期入団の選手たちが球団寮で過ごしていることが無性にうらやましかった。星空に向かって、願いを込める。そんな毎日だった。

「球団の寮との環境は雲泥の差でした。何ともうらやましかった。いつかはこっちの寮に移るんだというのをモチベーションにしていました」

 もう一つ、愕然(がくぜん)とさせられたことがあった。二軍球場のロッカーだ。支配下選手はそれぞれに個別のロッカーが割り当てられ、スペースがあった。育成選手は個別ロッカーではなく、全員で一つのスペースが与えられただけ。

「まるでプレハブ小屋だった。そこを10人近くで共有していた」と振り返る。覚悟はしていたし、そこからハングリーな気持ちで這(は)い上がろうと決意しての入団だった。だが、18歳という感性豊かな年ごろの若者の心に突きつけられた現実の一つひとつが、切ない気持ちにさせていった。

「何度もやめようと思いました。気持ちは毎日、激しく上下しました。落ち込んだり、また頑張ろうと思ったり……。親にも電話をして『やめたい』と相談もしました。でも返ってくる答えはいつも同じなんです。『最後までやり切れ』と。それを聞いて、『それしかないよな』と納得して、また頑張る。その繰り返しでした」

 そんな日々に希望をもたらしてくれたのは・・・

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