野球人生を振り返ると、何とも不思議なことばかり。プロ入り後、急激に伸びた球速も、ケガからの復活劇も、左腕自身が驚いた。それでも成長は確かだ。2020年、ホンモノの投球がチームを勝利に導く。 文=田尻耕太郎(スポーツライター) 写真=湯浅芳昭、BBM 158キロ左腕、誕生
マウンドに立つ者ならば、プロもアマも、年齢やキャリアも関係なく、こんな夢を一度は追いかけたはずだ。
誰よりも速い球を投げたい。
川原弘之はかつて、そんなロマンを実現してみせた。
2012年7月28日、山口県の下関球場(現名称はオーヴィジョンスタジアム下関)で行われたウエスタン・リーグの
ソフトバンク対
中日。たとえ二軍戦でもプロ野球を楽しみたいと足を運んだ熱心なファン1447人だけが球史の目撃者となった。
7回表、バッターの
英智に対して投げ込んだストレートが、球場計測で「158」と掲示された。当時の日本人最速左腕が誕生した瞬間だった。
「たぶんあれは間違いですよ(笑)。だって、あの日投げたほかのピッチャーもみんないつも以上に速かったですから。確か全員150キロを超えたんじゃなかったかな」 それでも、その日を境に「ソフトバンクの川原」より「158キロ左腕」と紹介されることが圧倒的に増えた。17年に同い年の
菊池雄星(当時
西武、現マリナーズ)に並ばれ、昨年は同僚の
古谷優人が三軍戦ではあったものの日本人初の160キロ左腕となった。それでも川原の記録が色褪(あ)せることはなく、随分と時間が経過した今もなお「158キロ」は彼の枕詞となっている。
川原は不思議な左腕だ。
プロ入りしたころのプロフィルでは最速は144キロ。
「せいぜい140キロ前後のピッチャーでした」というのが本人談だ。
福岡市出身で一度も地元を離れたことがない。南片江小1年のときに「油山少年野球部」に入部した。不思議といえば、野球を始めたばかりの川原少年は右投げだったのだ。
「先に野球を始めていた兄が右投げ。家族は両親も2人の弟も右利きで、僕だけ左利きなんです。だけど、家に右利き用のグラブしかなかった。それで最初は右で投げていました。左で投げるようになったのは、小3のころに父が左利き用のグラブを買ってくれてからでした」 中学では「福岡ウイングス」に所属。3年生のときには九州・山口地区の中学硬式野球クラブ王者を決める場として設立された「ホークスカップ」の第1回大会で優勝した。
福大大濠高に進学後は1年秋から公式戦登板し、前述の「144キロ」を2年夏の県大会でマーク。秋の九州大会では、翌春のセンバツ甲子園で優勝投手となる清峰高の
今村猛(現
広島)と互角に投げ合った。1対2で敗戦するも、ドラフト有力候補として注目を集めるようになった。
最後の夏も甲子園出場は叶わなかったが、「プロ10球団が熱視線」と注目度は変わらず。09年のドラフト会議で地元ソフトバンクから2位という高評価を受け、プロの世界へと飛び込んだのだった。
そこからわずか数カ月で、川原はとてつもない成長曲線を描いた。
「ルーキーの年は、キャンプが終わってもしばらくはボールを握った記憶があまりありません・・・
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