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野球浪漫2022

中日・松葉貴大 70点を武器にして 「学校の先生になろうと思い、大阪体育大学を選びました」

 

プロ10年目でつかんだFA権は、長く投げてきた証しであり、勲章である。ドラフト1位でオリックスに入団し、7年目の途中に中日へ移籍したサウスポー。突出した武器こそなかったが、松葉には行動力と継続力があった。
文=川本光憲(中日スポーツ) 写真=佐藤真一、橋田ダワー、BBM

中日・松葉貴大


 教師になっていたら、どうなっていたのだろうか。松葉貴大は中学教諭を目指した大阪体育大で素材が開花した。あきらめた投手に戻るきっかけは、同じ阪神大学野球リーグの松永昂大(関西国際大)対策のためのシート打撃だった。投手に推薦され、プロ注目選手となり、ドラフト1位へ駆け上がる。気づけばプロで10年戦った32歳。ロッテに入団した松永は今季限りで引退した。手にした国内FA権は権利を行使せず中日残留を決意し、残りの現役生活を全力で戦い抜く覚悟だ。

投手から外野手へ


 投手・松葉の夢は16歳で一旦は途絶えている。東洋大姫路高の1年冬。寒い日だった。強化週間のようなものがあった。毎日ブルペンで150〜200球を投げ込む。「ヒジからブチッと音がしました」。違和感を通り越して、背筋が凍った。冷や汗が出てくるのが分かった。

「何とかもう1球投げました」。ボールは捕手の大きく手前でバウンドした。受けていた先輩が、後方にいたコーチへ「こいつダメです」と告げた。コーチに事情を聞かれて「ヒジがブチッといきました」と正直に伝えた。診断の結果、剥離骨折。背番号1はあきらめた。半年以上、まともに投げることができなかった。

 兵庫県の香寺町(現・姫路市)で育った。2人兄弟の長男。父・恭功さんは東洋大姫路高の野球部OB、同学年に長谷川滋利さん(オリックスシニアアドバイザー)がいた。幼少期は社会人の軟式チームでプレーする父の姿を追い掛けた。野球に触れるのは自然な流れ。小学校低学年で野球を始め、中学では硬式の「姫路ボーイズ」でプレーした。硬式ボールに慣れて、父と同じ高校へ進んだ。そして1年冬、ヒジが悲鳴をあげた。

 剥離骨折の診断を聞いた際、医師からもう1つ、重要なことを告げられている。「若いし、正直、ほかのスポーツも考えたほうがいいよ」。今でもはっきり覚えている。

 あこがれて門をたたいた東洋大姫路高。1年冬に競技変更を迫られた16歳は正気ではいられない。頭が真っ白になった。曲げ伸ばしもできない左ヒジを見つめながら、将来が不安になる。関節がうまく動かせないのだから、競技を変えたところで、うまくいきっこない。

「外野を走ったり、ボールを拾ったり、それしかできませんでした」

 高校生の時間はあっという間に過ぎた。2年夏になり、ようやくまともに投げられた。投手専念より、試合に出たい。3年間控えは避けたかった。堀口雅司監督(当時)に「外野1本でやらせてください」と伝えた。2007年秋の兵庫大会で優勝。決勝では報徳学園高を3対0で破る。近畿大会も優勝して自信を深めた。

 翌08年春のセンバツに出場。「二番・右翼」が定位置。ベスト4に進んだ。準々決勝の智弁和歌山高戦では1学年下の岡田俊哉と対戦。「オリックスから中日にトレードで加入したとき、岡田から『対戦しましたよね』と話し掛けられて。『懐かしいな』と思い出しました」と目を細めた。

「甲子園は近くて遠い場所でした。見に行ったことはなく、出場したセンバツで初めて行きました。練習では何も感じませんでしたが、いざゲームとなるとアルプスの雰囲気とか、すごかった。いい経験をさせていただきました」

 人生のターニングポイントの一つは・・・

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