躓いたあとには必ず盛り返す。野球人生を振り返れば、いつもそうだ。逆を言えば躓くことも多いだけに快投を続けても心に問い掛けてしまう。こんなにうまくいくわけがない──。不安の中でも己の可能性を信じて投げ続けるのは、一つの使命があるから。 文=喜瀬雅則 写真=宮原和也 “戒め”の源に
あの日、敵地の大歓声に包みこまれたマウンド上で、阿部翔太は両膝の上に両手を置き、崩れ落ちそうになる自分の体をかろうじて支えていた。悔しさと屈辱に打ち震えながら、心の片隅に置き続けていた“戒(いまし)め”が、脳裏をさっと、よぎった。
「ここでやられるのか……と」 2022年10月23日。
ヤクルトの本拠地・神宮で迎えた日本シリーズ第2戦。3点リードで迎えた9回、阿部は継投の五番手として、勝利へのバトンを受け取った。プロ2年目の右腕はレギュラーシーズンで44試合登板、1勝3セーブ、22ホールドを挙げ、防御率0.61。
ソフトバンクとの優勝争いが激化した終盤の戦いでは
平野佳寿に代わり、ストッパーを務めるゲームもあった。
シリーズ初戦を落としていたオリックスにとって、この第2戦を取り、敵地での2試合を1勝1敗のタイへ持ち込み、本拠地・京セラドームへと戻っての第3戦以降へ向け、反攻への態勢を整えたい一戦。先の戦いをにらんでも、3点リードの9回をきっちりと締めくくっておきたい。シリーズの1勝目がかかった、このセーブシチュエーションで起用された阿部への信頼度が高いことの証左でもある。
それでも、阿部の心には、拭い去れない、どこかふわりとした小さな不安の芽が、いつもあったのだという。
「僕自身、去年のシーズン中とか、うまくいき過ぎていたんです。こんなにうまくいくわけがない、と思いながら、1年間ずっと戦ってきたんです。どっかでやられるやろ、やられるやろ……と……。僕的には、この世界であれだけうまくいっていることが、不思議やったんです。今まで、何回も壁にぶち当たってきたし、ずっとスーパースターみたいな脚光を浴びてきたわけでもなかったんで……」 その“戒めの源”は、自らの野球人生に、深く根差したものがある。
オリックスの本拠地・京セラドームのある大阪市西区のお隣、大正区で生まれ育ち、近鉄のファンクラブにも入会。近鉄の帽子をかぶり、実家から歩いても15分というドームへ足しげく通うと、
岩隈久志の投球にあこがれ、いてまえ打線の豪快なバッティングにも魅せられ
「ずっとプロ野球選手になりたいと思っていました」。
中学時代に指導を受けていたコーチが赴任していた山形・酒田南高へ進むと、捕手として2年夏の2009年に甲子園出場。ところが3年時、後に
楽天に入団する
下妻貴寛が入学してくると
「捕手を追いやられました」と言う。
投手に転向すると、公式戦での初登板は高3の夏。成美大(現・福知山公立大)では、投手希望ながら、監督から「捕手としても見てみたい」と大学入学直後のキャンプでは、投手と捕手での“二刀流”。早くから150キロ超えの速球で注目されながら、2年秋に「試合中に、ブチっと……」。右肘の筋断裂で1年間登板できず、試合復帰は4年春で「大学では、実働1年半くらい」。その4年時に、監督から「練習参加だけでもしてみろ」と社会人の日本生命への“テスト参加”を勧められながらも、阿部は
「恥ずかしいから行きたくない」と一度は断っている。
「僕的には、社会人、特に強い社会人とかって、いい大学、強い大学から行ってるイメージがあったんで……」 それでも・・・
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