屈託のない笑顔と明るさで、チームを支え、救ってきた。試合に出場することだけが、一軍にいる意味では決してない。常に出番に備え、チームを鼓舞する心意気は、合言葉『全員で勝つ!!』を象徴するものだ。自分の仕事に誇りを持つ男は強い。 文=米虫紀子 写真=毛受亮介 チャンスをつかんで
やってきたことは間違いではなかった。昨年9月20日、プロ10年目で初めて優勝の瞬間を味わい、石川亮はその思いをかみ締めた。
明るく人懐こい、誰もが認めるムードメーカーだ。得点が入ればベンチを飛び出し、誰よりも感情豊かに喜ぶ。肩を落としてマウンドを降りてくる投手を真っ先に出迎えて寄り添う。加入1年目とは思えない存在感だった。出場試合数は14試合で、前年よりも減ったが、間違いなく一軍に欠かせない戦力となっていた。
「試合に出ないんだったらいる意味ないなって、思わなくなりましたね」 三番手捕手として考え、果たした役割が、チームの勝利につながっていると確信できた1年だった。
石川が野球を始めたのは小学5年時。幼いころは重い喘息を抱えており、医師から屋外での運動を止められていた。そのため心肺機能を高める狙いで4歳から空手を始め、小学5年生のときに全国優勝を果たすまでになった。
そのころには体も強くなっていたため、野球好きだった父がどうしても野球をやらせたいとリトルリーグの体験入部に連れて行ったところ、はまった。空手をやめて野球一本に。小学生時代は投手か一塁手で、中学で武蔵府中シニアに入団時も投手を希望したが、同学年のレベルの高さに面食らった。
そんなとき、同学年の捕手がチームをやめてしまった。一塁手としてショートバウンドの送球を巧みに処理していた石川に「お前ならできるんじゃないか?」と白羽の矢が立った。最初の練習試合はファーストミットで捕手を務めて無難にこなし、監督に見込まれて転向。捕手としての人生が始まった。
高校は名門・帝京高に進み、1年夏から正捕手として起用された。
「運とタイミングが重なって、チャンスをつかんだという感じです。たまたま練習試合で正捕手だった3年生の調子が良くなくて、たまたま僕が出たら調子が良くて、前田(前田三夫)監督に気に入ってもらって、勢いでいったという感じです」 その夏は東東京大会を勝ち抜き甲子園に出場。1回戦で
大谷翔平(現ドジャース)を擁する花巻東高と対戦した。のちに
日本ハムでチームメートになる大谷は、高校2年の当時から注目を集める逸材だった。
「すごいバッティングでした。今でも覚えているんですけど、左投手の石倉(石倉嵩也)さんの外の真っすぐを打って、サードのちょっと上を越えたライナーが、そのままビューンと伸びてフェンスに直撃したんです。どえらいなと思いましたね」 試合は、リードしては追いつかれる苦しい展開・・・
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