プロ野球選手には、なるべくしてなった。育成から支配下へ、そこからの4年間では大きな病気を乗り越えたこともあった。選手としてはもちろん、人間としての『強さ』を持つ左腕は、常にどんな瞬間でもたくましく、自分の存在意義を見いだしている。 文=菅原梨恵 写真=川口洋邦、BBM 自分はプロに行ける
ゲームセットとともに、ピンク色に染まった本拠地・みずほPayPayが沸き立つ。『ピンクフルデー』として開催された5月17日の
楽天戦。先発した大関友久は6回1失点で、今季3勝目を挙げた。お立ち台では、持ち前の“美声”を響かせ、攻守にわたる仲間の援護に感謝をしつつ
「粘れたので良かった」と振り返った。
小久保裕紀監督も「しっかり粘り強く、ゲームをつくってくれた」と称賛。2020年に育成ドラフト2位で入団して2年目のシーズン途中に支配下昇格を果たし、以降、一軍登板を積み重ねてきた左腕は、今や、ソフトバンクの先発ローテーションに欠かせない存在に。そして、しっかりと勝ちを計算できる投手であることも間違いない。
大関自身も自らの立場の変化を感じている。
「昨年、チームがリーグ優勝する中で、個人的にも8勝4敗と勝ち越せたり、イニング数も122回1/3と自己最高を更新しました。それでも規定投球回には届いていませんし、内容もいろいろありますが、どんどん伸びてきているとともに、本当にチームの一員として優勝を目指してやっていけているというような気持ちはありますね」 そう言って向ける笑顔には優しさがあふれている一方で、以前から取材中に大関が発する言葉の端々には野球に対する人一倍の情熱と力強さがにじむ。プロ野球選手としての原点を問うたときも、そうだった。
「僕、野球を始めた記憶がなくて。父がすごく野球が好きなんです。それで、気づいたら家で壁当てをしていた感じで。将来の夢も昔から、聞かれたら何も考えずに『プロ野球選手!』と即答するようなタイプの人間でした」 だが、自身の思いとは裏腹に、アマチュア時代は決して注目度の高い選手ではなかった。土浦湖北高では1年秋からエースとなるも、3年夏は右手を疲労骨折していた影響もあって茨城大会3回戦で敗退。プロ志望届を出したものの指名漏れとなった。進学した仙台大では、1年春からリーグ戦に登板。とはいえ、エース格ではなく、リーグ戦の通算成績は19試合に登板して4勝3敗、54回1/3を投げて防御率3.15だった。
「結果としては同世代の中で突出したものを残すことはできませんでした。それでも、『プロに行ける』というのは確信的に思っていましたね。小学校、中学校、高校、大学と、たぶんずーっと『自分はプロに行ける』と思ってやってきていたというのが、正直な気持ちです」 そこに迷いや揺らぎは一切なかった。
「本当に疑わなかったです。自分が行けるか行けないかではなくて“どういうふうに行くか”、そんな感じだったんですよね」。だから、19年秋のドラフト会議で育成選手として指名されたときも「いろいろと考えた上で、プロに行くことのほうが優先順位が高い。あまり形にはこだわってなかったと思います」と、入団を決めた。そして、プロに入ってからも、着実に自分の立ち位置を確立してきている。
プロの世界は、ある意味、特殊だ。それぞれに才能を持つ選ばれし者たち同士の集まりなのだから当然と言えば当然なのかもしれないが、そこで大関は日々、『自分』と向き合っている。
この『自分』というのは大関友久という人間に迫る上での重要なキーワードの一つで、
週刊ベースボール22年8月8日号に掲載したインタビューの中でも大関自身が
「自分を信じて、自分を愛せるようになると、自分を生きられるようになるんです」と語っている。自分との向き合い方というところでは・・・
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