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記録の手帳 / 千葉功

黒田博樹 球史に名を刻んだ日米通算203勝の足跡

 

黒田博樹が今シーズン限りで現役を引退する。日本で2007年に通算103勝したときにメジャーへ挑戦。ドジャース、ヤンキースで14年まで合計79勝したところで古巣の広島へ電撃的に復帰した。15、16年に合計21勝し、16年はチーム25年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献した。今回は球史に名を刻んだ日米通算203勝の足跡を追ってみたい。

メジャーから復帰を果たした黒田は見事に広島の25年ぶりの優勝に貢献し、今季限りでの引退を発表した


広島で大きく成長して世界最高峰の舞台へ


 日本復帰2年目の今シーズン、広島はリーグ優勝。CSを勝ち抜いて黒田は日本シリーズ第3戦に先発した。広島が2対1とリードした6回裏二死無走者まできたところで、両足のふくらはぎから太もも裏にかけてつったために降板。勝利投手の権利を残していたが、後続の投手が打たれて権利は失った。日米いずれでも最高峰の舞台で勝った経験がなかったため、少し残念な結果だった。

 1997年から07年まで広島に在籍したときには優勝とはまったく縁のない環境で投げていた。Aクラス入りしたのは入団1年目の97年だけだが、勝率.489の3位で首位のヤクルトとは17ゲーム差。2年目以降は勝率5割台も01年(.511)の1度だけで、11シーズンの中で4位が1度、5位が8度、6位が1度の万年Bクラスであった。

 08年にメジャー入りしてドジャースに4年、ヤンキースに3年在籍したが、ワールド・シリーズには出場できなかった。プレーオフでは5度投げている。ドジャースでは08年のカブスとの地区決定3回戦で6回1/3を自責点0で勝利投手。同年のフィリーズとのリーグ優勝決定3回戦でも6回0/3に自責点2で勝利投手。終わったとき黒田は「しんどい1年だった。でも、終わってみれば充実していた」とメジャー1年目を振り返っていた。

 09年にはフィリーズとのリーグ優勝決定戦の先発マウンドに上がったが、2回一死までに自責点6で悔しい敗戦投手。さらにヤンキース移籍1年目の12年にも地区決定戦、リーグ優勝決定戦に1度ずつ投げたが、勝利投手にはなれず……。結局、プレーオフには5試合に投げ2勝2敗の成績を残したが、ワールド・シリーズ出場の夢は叶わなかった。

 1年目は9勝、2年目は8勝に終わった以外は常に2ケタ勝利を挙げていた。09年は4月6日のパドレス戦で開幕戦に先発して勝っていたが、10日に左ワキ腹に違和感を訴え故障者リスト(DL)入り。6月1日まで登板できず、2勝目は6月23日と大幅に遅れた。結局、21試合にしか投げられず8勝とメジャーでの最少勝ち数と唯一、規定投球回数に達しないシーズンに終わった。

 メジャー7年間で、残るシーズンは31、32、33、32、32試合と投げていたのはローテーション入りしていた投手の標準登板数で無難に投げていた証明である。(A表参照)


 7年間のメジャー生活で走者二、三塁で打者を打率.242に抑えていたのは、肝心なところは抑え切っていたのを示しているが、本塁打は4本打たれていた。しかし満塁での成績は58打数15安打で被打率.259で、長打は二塁打1本だけ。メジャーでは満塁本塁打は1本も打たせなかった黒田である・・・

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