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村山実 別格の存在感を放っていた大スター

 

例によって球団に正当に評価されなかった大スターの1人だが、その存在感は、トラ戦士の中では別格!!
文=大内隆雄、写真=BBM

1963年、阪神は米フロリダ州レークランドのタイガータウンで、初のアメリカキャンプを挙行した。左・村山、右・吉田義男。村山は62年MVPに輝いていた



 あれは阪神・淡路大震災よりかなり前だったからもう30年ほどになる。村山実の自宅に電話をして、何かの取材の件をお願いしているときだったが、雑談になって、「どうして阪神に入団(58年)を決めたのか」という話になった。

 村山いわく「あのころは不景気でねえ。阪神は『阪神電鉄の本社からタイガースへの出向という形はどうですか』という条件を出した。これにはグッと来ましてね。いつケガでやめなアカン時が来るかもしれん商売。そのときに電鉄に戻って仕事ができる、こんなありがたいこと、ほかにおまへんがな。ま、戻ることはありませんでしたが、昭和47年(72年)に引退したとき、部署は忘れましたが、阪神電鉄の課長でしたワ」。

 われわれには「巨人を、長嶋さんを倒せるなら、給料なんかいらんわい!」の男気100パーセントが村山のイメージ。そんな人でも、そういうプロ入りをしたんだなあ、と何だか村山が急に身近な人に思えてきた。

 巨人は、阪神の倍以上の2000万円とも言われる契約金を用意したらしいが「阪神電鉄本社から出向」には勝てなかったワケである。安定志向と言うなかれ。昭和30年代のプロ野球は、まだ世間からは「変わった商売」と見なされ・・・

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