週刊ベースボールONLINE


日本の野球人に多大な影響を与え続けた与那嶺要

 

アメリカ人でもなく、日系人でもなく「マウイ人」を貫いたウォーリー。それでも日本の野球人に多大の影響を与え続けた
文=大内隆雄、写真=BBM

1958年の与那嶺。打撃でも走塁でもファイティング・スピリットでも、まさに野球を変えた男だった



 1990年の秋だったと思うが、「週ベ」の91年の新連載企画「野球を変えた男」の最終打ち合わせを、与那嶺要、ライターの山本茂、小社の常務、そして筆者の4人で行ったことがあった。ウォーリー(与那嶺)は、あまり上手ではない日本語で、よくしゃべった。のちに同じタイトルで小社で書籍化することはすでに決まっていたのだが、与那嶺は「ヨナミネ・ファウンデーション(与那嶺基金)を設立して、恵まれない人たちを援助したい。ついては、そのブックの印税はすべてそちらに回したいのですが」と言った。こんなことを語るプロ野球人には初めて会った。

 小社の常務は、与那嶺の話がよほど面白かったと見えて、「山本さん、これでもう、5、6回分のネタができましたね」と隣の山本に話しかけた。山本は、常務をジロリと睨にらんだ。このジロリは「取材とはそんな安直なものじゃないよ」という、プロの眼ぢからだった。筆者は「このライターなら大丈夫」と安堵した。

 第1回は、「週ベ」2月11日号に掲載された。その中に、こういう個所があった。

「マウイ島。それはきびしい労働と差別と悲しみの島だった。17歳で移民してきた父は、そのサトウキビ畑で朝から晩まで働き、ぼくら7人の子供をもうけ、育ててくれた。牧歌的な楽しい思い出、希望のない辛い労働。この二つがないまぜになって、ぼくの脳裏にはある」

 これが与那嶺の人生の原点だった。

 常にここからの脱出、上昇を夢見ながら、ここ以外に楽園はない。だから、日本で成功を収めても、いや、収めれば収めるほど、「ハワイ・マウイ島移民の子」という自己のアイデンティティーの意識が、与那嶺の中でますます強固になっていった。

 読者はまず、与那嶺とはそういう人であったことを確認してほしい。51年途中に来日した与那嶺は、アメリカ人でもなく、日系人でもなく、「マウイ人」だった。だから、日本に溶け込むために、早く日本語を覚えよう、生活を日本式にして「日本人」として認められよう――そんなことはサラサラ考えなかった。

 こういう与那嶺の心をすぐに理解したのは千葉茂二塁手だった・・・

この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。

まずは体験!登録後7日間無料

登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。

プロフェッショナルの肖像

プロフェッショナルの肖像

プロ野球選手の美学にスポットを当てた連載企画。自分をとことん追求した選手たちの姿を紹介。

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング