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DeNA・今永昇太 無類の負けず嫌いでプロでもエースを目指す

新人合同自主トレの持久走では、2位に20秒差以上をつける独走状態でフィニッシュした今永

 

ある敗戦を機に“考える練習”に変わった


 小学生から硬式野球のチームに所属し、名門高校で甲子園出場……そんな「エリートコース」とは無縁の野球人生を歩んできたのが、横浜DeNAドラフト1位の今永昇太だ。彼は小学校時代にソフトボールを始め、中学校では軟式野球部に所属し、そして地元の県立高校へと進学した「普通の」野球少年だった。

 小学校時代に所属した永犬丸西ソフトボールクラブで、今永が小学4年、6年の時に監督を務めたこともある竹内久さんに話を聞くと、当時から運動神経は抜群だったという。

「野球はもちろん、走るのも速くて運動会ではいつも1等賞でしたし、ほかにサッカーをしても何をしても、誰よりも上手かったですよ。彼は当時からピッチャーをしていましたが、時々ショートをしていたこともありました。左利きだというのに、華麗なグラブさばきをしていたのを覚えています。天才というのは、こういう子を言うんだろうなと思ったものです」

 チームは5、6年生のAチームと、4年生以下のBチームとに分かれており、今永は4年生の時はBチームの、そして6年生の時はAチームのエースだった。竹内さんの記憶ではBチームの試合では、相手バッターが今永のボールをバットに当てることすら難しく、チームは負け知らずだったという。
「確か、最後の大会で九州地区の強豪と決勝を戦って、その時に初めて負けたと記憶しています」

 しかし、Aチームではなかなか勝てなかった。
「今永君は、どちらかというと体が小さかったんです。高学年になると、それこそ170センチ近くあるような子どももいますからね。球は速かったのですが、体の大きなバッターには打たれるようになりました」

「とても小さくて、細かった」という印象は、北筑高校の田中修治監督(当時は部長)も同様だったようだ。田中監督が初めて今永を見たのは、彼が中学3年の時だった。
「ちらっとしか見なかったのですが、華奢な印象がありました。彼はエースではなく、確か2番手か3番手だったと思います」

 しかし、入学して初めてキャッチボールをさせた時、田中監督は素質の高さを感じたという。
「まだ筋力はなかったのですが、変なクセがなく、とてもフォームがきれいでした。バランス良く投げるピッチャーだなと思いましたね。コントロールも良くて、大きく修正するようなところはありませんでした」

 何よりも目を引いたのは、球質だった。指にしっかりとボールがかかっているため、最後まで回転数が落ちず、バッターの手元でスーッと伸びていくボールを投げていた。そのため、最速110キロ台後半でも、三振を取れていたという。その後、冬場のトレーニングで体が成長するにつれて、球速は伸び、2年秋には125キロに、そして3年春には132キロを計測。その2週間後には、一気に142キロにまで伸ばし、周囲を驚かせた。

「おそらく、その頃から常時140キロは出ていたんでしょうね。うちにはスピードガンがありませんからわからなかったのですが、夏の大会では球場の電光掲示板に1球1球表示されたので、それでわかったんです。3年夏の最後の試合では、9回までほとんど140キロが出ていて、驚きました。『こんなにすごいピッチャーだったんだ』と、改めて思いました」

 3年時にはプロのスカウトからも注目されるほどのピッチャーとなった今永。そんな彼にとって、3年間で最も悔しかったのは1年秋でのことだ。九州大会出場をかけて行なわれた福岡北部大会準々決勝、先発した今永は中盤まで5-0とほぼ完ぺきなピッチングだった。ところが、終盤にさしかかったところで大崩れし、結果的には5-12、7回コールドで敗れてしまった。

 ポイントとなったのは、満塁というピンチでの今永のピッチングだったと田中監督は振り返る。
「5回か6回だったと思うんですけど、満塁の場面で、今永はストレートで押し続けたんです。追い込んでいましたから、そこで1球でも変化球を入れていれば違ったんでしょうけど、彼はストレートにこだわった。その結果打たれて、あっという間に流れが変わったんです」

 今永は当時、背番号は「10」だったが、実際はエースの働きをしていた。そのため、田中監督は少し天狗になっていると感じていたという。そんなこともあったのだろう。試合後、田中監督は「なんで通用しないストレートばかり投げるんだ?今日の敗戦は、全部オマエだぞ」と厳しい言葉を投げたという。

 この言葉が、今永の闘志に火をつけた。
「私の言葉が、よっぽど悔しかったんでしょうね。『ストレートで三振の取れるピッチャーになってやる』と思ったようです」

 その日を境に、それまでは言われたことを一生懸命やるだけだった彼が、「今、自分は何をしなければならないのか」「何を優先すべきなのか」ということを考えるようになっていったという。それは、日課となっていた練習ノートにも表れていた。

「その日あった練習のことを書くだけの選手が多い中、彼は『来年の夏にこうなるためには、今何をしなければいけないのか』と、先を見据えたことを書いていました。野球に対する考え方は、誰よりも大人になりましたね」

 今永は卒業する際にも、「あの時の悔しさは忘れられない」と語っていたというのだから、よほど大きな出来事だったに違いない。また、その悔しさがあったからこそ成長できた自分を感じてもいたのだろう。

 今永の闘志に火をつけたその言葉が、プロへの扉を切り拓いた第一歩となったのかもしれない――。

取材・構成=斎藤寿子 写真=BBM
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