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沢村栄治「栄光の伝説」/生誕100年記念企画その2

【沢村栄治 栄光の伝説(2)】巨人・沢村栄治とバッテリーを組んでいた男

 

沢村の墓


 2000年だからもう17年前になるが、名古屋から近鉄線の特急で1時間あまり、伊勢神宮の鳥居前町、伊勢市の宇治山田駅に着いた。

 平日で人影もまばら。大通りから路地を入っていくと、古い木造の建物が目立ち、玄関先にしめ縄を飾っている家もあった。都会の喧騒とは別世界。通常の時間の流れから外れ、不思議な浮遊感を覚えた。

 宇治山田駅周辺の岩渕町で沢村栄治は生まれた。家は戦後も残っていたというが、このときはすでに取り壊されて駐車場になっており、名残りはなかった。
 
 駅から5分ほど歩いた郵便局裏手の斜面に一誉坊(いっちょぼう)墓地があった。そして、その中央付近、野球のボールをかたどって造られているのが、沢村の墓である。正面にジャイアンツの「G」、裏側には背番号「14」が彫り込まれていた。

 取材に先立ち伊勢市役所の観光課に沢村ゆかりの方を尋ねると、小学、中等学校時代、1学年下で沢村とバッテリーを組んでいた山口千万石(せんまんごく)さんを紹介してくれた。1917年生まれで、当時82歳。千万石という珍しい名前は「これだけ目立つ名前なら悪いことはできんだろう」と父親がつけたものだ。

 隣町の度会郡小俣町に住み、驚くべきことに、まだ地域の軟式野球で審判をやっているという。

「人が足りないときだけですけどね。今年も2回ほど審判してますけど、もう足がえろうてね。ちょっとしんどいですわ」

 弾むような口調から、言葉とはまったく逆、「まだまだ若いもんには負けんよ」と言わんばかりの思いが伝わった。

 沢村は明倫小に入って野球を始めた。体が弱かった栄治少年を心配し、無類の野球好きだった父親の賢二氏が、なかば無理やり始めさせた。

 野球に本気になったのは4年生のころだ。「オタイ(地元の表現で自分)はボールを投げるんや」と宣言し、その後は暇さえあれば壁に向かいボールを投げた。

「いつもケシ炭で丸を書いて投げていた。僕が5年のころ『栄ちゃん、僕が捕ってもいいよ。でも速く投げんといてね』と言って受けるようになったんです」

 山口さんは沢村のことを「沢村くん」「栄ちゃん」と2つの呼び方をしていた。(続く)

写真=BBM
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