1934年11月20日、草薙球場の試合は晴天に恵まれ、真っ白な富士山の嶺もくっきり見えたという。
連戦連勝の全米選抜チーム。メジャー・リーガーたちに、おごりは当然あった。この試合でもコニー・マック監督はベンチに入らず、次の遠征地に向かい、試合の指揮はベーブ・ルースが執った(ほかの試合でもあった)。試合直前になっても、全米選抜のベンチは、まさに観光旅行のようにざわざわとにぎやかなものだったという。
しかしながら、試合が始まると雰囲気は一変する。
この日の沢村栄治の速球はひたすら速く、ドロップのキレも魔球のごとし。メジャーの大男たちのバットが面白いように空を切った。1回ゲリンジャー、ルースが連続三振、2回ゲーリッグ、フォックスが連続三振、3回ヘイズ、ホワイトヒルが連続三振……。スコアボードには互いに「0」が並ぶ。特に全米の打者たちは沢村のドロップに苦戦し、4回の攻撃を迎える前に、ルースが「あのフック(ドロップ)の曲がり端をたたけ!」と声を荒げたほどだ。
勝負がついたのは、7回だった。0対0で迎えたこの回の先頭は三番のベーブ・ルース。沢村はドロップで簡単に投手ゴロに打ち取り、まずは一死としたが、次の打者、同じく
ヤンキースのルー・ゲーリッグが初球ストレートでストライクの後、2球目のドロップを狙い、右翼外野席の中段にソロ本塁打。全米選抜が1点を先制した。試合は結局、0対1で惜敗に終わったが、完投した沢村の素晴らしいピッチングは、随行していた記者によりアメリカにも打電され、「スクールボーイサワムラ」の名は全米球界にとどろいた。
しかし、沢村の快投はこの試合だけだった。以後の登板はメッタ打ち。おそらくドロップの投げ過ぎで右ヒジ痛が出たこともあるが、ドロップを投げる際、顔を大きくしかめるクセを全米選抜の打者に見抜かれたこともある。力だけでなく、それもまた野球の差と言えるだろう。
もちろん、それでも17歳の右腕の評価が下がることはなく、全米選抜のアテンドをしていた鈴木惣太郎は、マック監督から「沢村をアメリカに連れて帰りたい。本人に伝えてほしい。2、3年しっかり鍛えた上でメジャーに挑戦させたい」と言われ、本人に伝えたが、沢村はニコニコしながらも「行きたいが、怖いわ」と答えたという。
雲の上と言われた全米選抜相手に17歳の相手が見せた好投。沢村の名は日本全国に広がり、一躍時の人となった。そしてそれは、その後に誕生する日本プロ野球にとって、大きな、大きな贈り物にもなった。(続く)
写真=小山真司