週刊ベースボールONLINE

石田雄太の閃球眼

大家友和の功績

 

エクスポズ時代の大家友和


 今から15年前のことだ。

 2002年10月14日、祝日の午前10時半から1時間、ちょっと風変わりなスポーツドキュメンタリーをTBSテレビで放送した。それは2002年のシーズン、13勝を挙げたモントリオール・エクスポズの大家友和を追い続けた番組で、スタッフの一人として構成を担当した。

 風変わりと表現したのは、メジャー・リーガーの大家のことを、日本に居場所をなくし、海外へ居場所を探すために飛び出す多くの若者たちに重ねて描いたからだった。そんな若者たちの心の声を、女優の斉藤由貴さんにナレーションしてもらった。たとえば、こんな具合に――。

『仕事も夢も中途半端。ニッポンにいたってやる気なんか起きないよ。こことは違う、どこか海の向こうに行けば、僕はきっと今とは違う自分になれる。そうやって言い訳してる僕がいる。居場所の見つからない僕がいる……』

 野茂英雄佐々木主浩イチローら、当時、メジャーで活躍する日本人選手はみんな、ニッポンに確かな居場所があったにもかかわらず、あえて海を渡る選択をした。そして彼らはアメリカでも変わらずにその力を発揮した。しかし、大家はそうではなかった。彼にはニッポンに居場所がなかった。それでもアメリカに行けばきっと自分にふさわしい場所があると、そう信じて海を渡った。

 マイナーのチームに所属した大家は、アメリカで厳しい現実を知る。一カ月、8万円の家賃を払ってのアパート暮らし。韓国人のチームメートとの共同生活。バスに揺られての長旅……それでも大家にとっては野球をやれる環境が幸せだった。高校時代から憧れ続けたノーラン・ライアンと同じ背番号34をつけて、大家はマイナーのマウンドに立った。

 水を得た魚のように、大家は勝ち続けた。マイナーでの15連勝。そして、ポータケットのマッコイ・スタジアムで伝説を打ち立てる。2000年6月1日、77球で成し遂げた完全試合――日本で結果を残せなった大家はアメリカでチャンスを与えられ、マイナーで結果を残した。大家は自らの手でメジャーへの切符をもぎ取ったのである。

 1993年、大家はベイスターズから3位指名を受けて、プロの世界へ飛び込んだ。24年ぶりとなる高卒ルーキーの4月初勝利も記録し、彼の未来は明るく輝いていた。しかし、大家がニッポンで挙げた勝ち星はこの1勝だけ。それ以降の5年間、彼は二軍で勝てても、一軍ではどうしても勝つことができなかった。

 大家はニッポン的なタテ社会、やらされる練習、歪な人間関係に苦しんだ。そんな場所にいては力を発揮できないと、言い訳ばかりを探していた。しかし大家は、ニッポンが嫌いなわけではなかった。あえて言うなら、ニッポン的なものが嫌いだった。だからアメリカの野球に憧れたのかもしれない。それは、大家にとっての野球がそれほど大切なものだったからだ。大家は野球をやるために、野球を奪われないために、ニッポンを飛び出してアメリカへ渡った。大家はニッポンから逃げ出したわけではなかったのだ。大家がそう語るシーンに、ふたたび斉藤由貴さんの上質なナレーションがかぶる。

『足下がふらつけば、てっぺんなんて見えやしない。僕はずっと、そうだった。それが今、やっと居場所が見つかって、ようやく、てっぺんが見えてきた。だから、高いところに登ってみたかった。どうしても、確かめたいことがあったんだ』

 メジャー・リーガーになりたいと夢だけを見てアメリカへ渡る若者と、野球がやりたいと目標を見据えてアメリカへ渡る若者は、似て非なるものだ。それを大家は教えてくれた。大家の足下には、常に野球をやりたいというハッキリとした目標があった。そのことを、このちょっと風変わりなスポーツドキュメンタリーで伝えたかったのである。

 6月19日、大家が現役を引退することが報じられた。すでにNPO法人を立ち上げ、少年野球やクラブチームの運営にも携わっている。大家友和という選手は、野球をやりたいという想いを貫いて、そのチャンスがアメリカにもあるということを初めて知らしめてくれた。その功績は、残した数字だけでは計り知れないほど、大きいものだった――。
文=石田雄太 写真=GettyImages
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング