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石田雄太の閃球眼

高校野球と1年生

 

神奈川大会で名門・横浜高の1年生で唯一、1ケタの背番号7を勝ち取った小泉龍之介。甲子園では18を背負う


 よその子とゴーヤは育つのが早いと言って笑わせたのは博多華丸だったが、今年の高校野球を観ているとその言葉を実感する。私事で恐縮ではあるが、息子が今年、高校1年生になった。もし硬式野球部にいれば甲子園を目指せる年になったということだ。実際、甲子園で活躍した1年生と言われれば、何人かの顔が思い浮かぶ。

 1977年、夏の甲子園の決勝で惜しくも敗れた東邦の坂本佳一は個人的には3つ年上で、中学1年生にとってはプロ野球選手と何ら変わらない憧れの存在だった。1980年の夏、甲子園で愛甲猛のいた横浜に及ばす準優勝となった早実の荒木大輔は同い年で、同じ高校1年として彼の甲子園での活躍を異次元の世界の人だと思って見ていた覚えがある。

 そして桑田真澄は3つ年下で、1983年、PL学園が全国制覇を成し遂げた夏の甲子園は浪人生として見ていた。年下が何と凄いことをしでかすんだろうと感心すると同時に、甲子園でプレーする高校球児がいつの間にか全員、年下であることに驚かされたものだった。その6年後の1989年、夏の甲子園でベスト4まで勝ち進んだ秋田経法大付(現明桜)の1年生、サウスポーの中川申也は9つも年下で、取材対象の一人だった。秋田まで足を運び、中学時代のライバルだったチームメートの斎藤幸治とともに話を聞いて番組を作った。その後、中川と斎藤のライバル物語は、3年生の夏まで続くことになる。

 最近で言えば、甲子園出場は果たせなかったものの、2011年の神奈川大会に突如、現れた1年生サウスポーが忘れられない。桐光学園は準々決勝で1年生の松井裕樹(イーグルス)を先発させたのだ。小学生のとき、ベイスターズ・ジュニアに選ばれ、中学時代には青葉緑東シニアで全国制覇を成し遂げたスーパー1年生を抜擢した桐光学園は、神奈川大会の決勝まで勝ち上がった。最後は延長の末、横浜に敗れて甲子園出場はならなかったものの、強打の横浜打線が松井のボールを打ちあぐね、ことごとくポップフライを打ち上げていたのが印象的だった。

 今年も全国各地で1年生の球児たちが躍動した。興南が全国一番乗りで甲子園出場を決めた沖縄大会の決勝で、我喜屋優監督が先発させたのは公式戦では初先発となる1年生左腕・宮城大弥だった。中学時代、侍ジャパンU-15に選ばれ、世界大会で3試合に中継ぎで登板した宮城は、1年生とはいえ実績十分。神奈川大会でも、横浜の1年生で唯一、1ケタの背番号7を勝ち取った小泉龍之介は中学時代、福井の鯖江ボーイズで全国制覇を経験しており、神奈川大会でさっそくホームランを放っている。桐光学園でもややサイド気味からキレのいいボールを投げる右腕の谷村然と、松井裕樹そっくりな左腕・冨田冬馬の1年生コンビが奮闘した。谷村は湘南ボーイズで全国制覇、冨田は横浜緑ボーイズで全国大会に出場する実績を持つ。地方大会で活躍する1年生は、中学時代から野球で名を馳せた猛者ばかりのようだ。

 さて、息子の通う高校の野球部もこの夏、甲子園に挑んだ。小学校のときからよく知っているマサナ君が1年生ながら背番号11をつけてベンチ入り。ブルペンで準備をしたものの、登板機会はないまま、初戦で敗れてしまった。一塁ベースコーチとして声を出し続けた背番号17のジョーイチロー君も、バット引きで頑張った背番号18のカッスーも、記録員として登録されたカンタ君も、みんな、甲子園から遥か彼方の場所にいる、それでも甲子園を目指す1年生球児だ。ちなみに息子はブラスバンド部の一員として、陽射しのきついスタンドで応援していた。

 野球人口減少の波がついに高校野球にも押し寄せ、全国の硬式野球部の1年生部員数が2000年以降で最少の5万4295人となったことが日本高校野球連盟から発表された。その中には、中学時代から実績十分、もう甲子園出場を果たした1年生もいれば、地方大会で一つも勝てていない全国的には無名の1年生もいる。見る側からすれば、かつては憧れだった高校球児がいつしか同い年になり、やがて年下となり、取材対象になって、ついには息子と同じ年になってしまった。きっとこの3年間は、親の気持ちで高校野球を見つめることになるのだろう。それもまた、乙なものだ――。

文=石田雄太 写真=大賀章好
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