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カープアカデミー物語

【カープアカデミー物語08】名球会入りの資格を持つ日米2000安打のソリアーノ

 

1990年、広島が選手育成のためにドミニカ共和国に開校したカープアカデミー。後にメジャーで活躍したソリアーノら多くの選手を輩出した。今年、育成から支配下に昇格したバティスタメヒアも同アカデミーの出身で、再び注目を集めている。連載「カープアカデミー物語」で、その歴史をたどる――。

日本球界ではわずか2安打も


鈍足から“ロバ”と言われたはずが、メジャーで盗塁王を獲得。なぜ?


 1996年、二軍の外国人選手枠が撤廃したことを受け、事実上の最終年が濃厚だったロビンソン・チェコに加え、広島は新たにアカデミーの4選手と契約した。

 フェリックス・ペルドモティモニエル・ペレス、フランシスコ・デラクルーズアルフォンソ・ソリアーノである。

 このうちペレスについては以前この連載でも紹介している。ペルドモは99年までプレーしたが、スタメン定着はならず。野手と投手の二刀流で話題になったことがある程度だ。デラクルーズは一軍での登板はなかった。

 最後の1人、背番号74のソリアーノは、のちメジャーのレジェンドとなるカープアカデミーの出世頭だが、日本では翌97年に9試合だけ一軍出場し、2安打のみの成績に終わっている。のち98年に契約更改でもめ、年俸調停の末、退団したときも、さほど大きな話題にならなかった。

 しかし、その後、ヤンキースほかで大活躍し、メジャー通算2095安打、412本塁打、289盗塁をマーク。実は、日本の名球会入りの資格も持っている。

 96年、『ベースボールマガジン』で、この4人の座談会が掲載されている。記事中から20歳の青年ソリアーノの素顔を探ってみよう。

 ソリアーノが地元の野球チームに入ったのが7歳。94年に地元のチームとカープアカデミーが親善試合を行い、3打数2安打の活躍をした。それを同じ村出身のアカデミーのコーチ、リナーレスにスカウトされた。

 ただ、「先に入っていた選手からアカデミーの厳しさは想像を超える、と言われ、正直迷った」と言う。ペルドモも「たくさんいた仲間がドンドンやめていった。カープの練習はしんどいものですから。同じ大変さならアメリカのチームでやりたいと思う人も多かったしね」と、この座談会で語っている。

 ソリアーノも最初の1週間でやめようと思ったという。

「次の週は疲れてしまって行けなかった。そしたら家族から『あなたはまだ若いのだからこれからでしょう。将来性があるのだから一生懸命やりなさい』と言われ、再び行く決心をしました。リナーレス・コーチからもいろいろ指導を受けました。おかげさまで1カ月後、契約をしてもらえました。あのときの厳しい練習が僕を支えていることは間違いありません」

 その後、95年のドミニカ・サマーリーグで首位打者になった打撃力を買われ、来日。初来日当時の感想を聞かれると、「右にハンドルがついている車を初めて見て驚きました。それとアイスクリームを買いにいったら、食べたいのが500円もした。110円のもあったんだけど、どうしても食べたかったのが500円のほうだったから」と話して、笑顔を浮かべた。

 ソリアーノが退団した98年のオフにはペレス、さらにケサダも日本で初めてポスティングシステムを使って退団を表明したが、ケサダは米球界行きも、ペレスには手を上げる球団がなく、1年残留となっている。

 2人の代理人と交渉も行った広島の松田オーナー代行は、「これまではドミニカ選手を日本人と同じように認識していたが、これからは大リーグの選手として考えたほうがいいのかしれない」と語った。

<次回へ続く>

写真=BBM
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