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パンチ佐藤の漢の背中!

【パンチ佐藤が直撃】ファンや社会に還元を誓う藤田太陽 (前編)

 

『ベースボールマガジン』で連載しているプロ野球選手の第2の人生応援プロジェクト「パンチ佐藤の漢の背中」。現役を引退してから別の仕事で頑張っている元プロ野球選手の下をパンチさんが訪ね、お話をうかがってまいります! 今回はCIFA株式会社でオーガニック食品の輸入販売の事業に携わっている、元阪神ほかの藤田太陽さんです。

プロ野球界に入れたこと自体、夢のような出来事だった


現在はCIFA株式会社でオーガニック食品の輸入販売の事業に携わっている藤田太陽さん(左)


 今回のゲストは秋田出身の藤田太陽さん。両親ともに岩手出身で、同じ“東北の血”を引くパンチ佐藤さんは、取材前からかなりの親近感を持っていたそうだ。

 待ち合わせ場所に現れた藤田さんは、信号の向こう側にいてもひときわ目立つ長身、スポーツマン体形は現役時代そのまま。しかしクールカジュアル系の着こなしは、すっかり“できるビジネスマン”のオーラを醸し出していた。

◇ ◇ ◇

パンチ プロ生活12年。まずは大きなところから聞くけど、最高の思い出といえば何ですか。

藤田 秋田出身の自分にとって、プロ野球界はとても遠い世界だったんです。テレビでも巨人戦しか見たことがなかった。社会人野球を経たからといって、まさか自分がドラフト1位でプロ野球に入れるなんて思ってもいませんでした。小さいころから親父と二人三脚で練習してきて、その瞬間、初めて「野球をやってきてよかったな」と思いました。

パンチ プロ野球界から遠いと思っていたときにもコツコツ真面目に頑張ってきたからこそ、それを見ていた神様が認めてくれたんだな、と。まずはプロ野球に入れたことが夢のようだったんですね。

藤田 それまで、「お前なんか無理だよ」と言われ続けてきましたからね。(県立新屋)高校も、1回戦に勝ったことがない学校だったんです。

パンチ 阪神に入ったときの監督が野村(克也)さんだったでしょう。何か思い出はありますか。

藤田 僕、初日のミーティングで居眠りしちゃったんですよ。練習で疲れ切っていたこともありまして……(苦笑)。でも、その後はしっかり聞いて、勉強させていただきました。今も野村さんの本が出たらすぐ読むほど、僕のバイブルになっています。

パンチ 特にどんな言葉が頭に残っている?

藤田 チームには適材適所があるということとか、バッターをタイプ別に分類して配球を考えることですね。

パンチ 直球を待って変化球に合わせるタイプとか、ヤマを張るタイプとかってヤツだね。

藤田 はい、それをしっかり自分の中で理解してから配球を考えるということです。キャッチャーの矢野(耀大=現阪神コーチ)さんにリードされるまま投げるのと自分の考えを入れながら投げるのとでは、結果が違います。それは今、まさに僕がクラブチームで教えていることですね。

パンチ “適材適所”はビジネスの場でも同じだしね。1人だけずば抜けたヤツがいても、ダメなんだ。そのへんはまた後から聞くけど、全部つながってくるよね。逆にプロ野球時代、つらかったことはある?

藤田 結果が出ないとか努力することが苦しいとかいうよりも、西武時代の2010年、日本ハム高橋信二さんの頭にデッドボールを当てて、イップスになってしまったことですね。今だから言えるんですけど……。阪神のころはJFKという“鉄板”のリリーフ投手陣がいて、ずっと二軍でしたけれども、なんとか成績を出して、渡辺久信監督から西武に呼んでもらいました。そこでセットアッパーとして成績を残すことができたんですが、信二さんの頭に当てた後、もうボールを握ること自体怖くなってしまって……。

パンチ それは苦しかっただろうね。

藤田 それまで何があっても野球は僕にとって絶対に必要なものだったんですけど、あのときはユニフォームを着た瞬間、吐くのが止まらなくて。大好きな野球がすべて恐怖で満たされた状態ですね。それを誰にも言うことができなかったんです。

パンチ 2010年といえば、31歳か。脂ものっていたころでしょう。

藤田 西武に行って、やっとプロでの手ごたえを感じ始めて。体も球も、精神的にも一番のっていたときです。それまでボールが引っかかることはあっても、あんなふうに抜けたことはなかったですよ。そのズレが、あまりに衝撃的で。自分の中で、これは何か違うのかな、と思い始めました。

頭部死球で感じたズレから引き際を考えるように


2001年にドラフト1位で阪神に入団。同期には赤星憲広藤本敦士らがいる


パンチ 今思うとそんなのあまり気にすることじゃなかった? それともやっぱりダメだったって思う?

藤田 僕は完璧主義者なんで、ちょっとのズレも許せなくて……。

パンチ プロって神経質じゃいけないし、無神経でもいけない。ここが難しいところでね。成功している人って、だいたいちょっと無神経だよね。

藤田 それは本当に思います。図太いというか。

パンチ 僕も結構、神経質だから、「このピッチャーにはこのバット」とかイメージがあったわけ。「よし、このピッチャー来た、ならあのバットだ」ってベンチ裏で振ろうと思ったときに、先輩がそのバットに触わってたりすると、もうねえ〜(苦笑)。

藤田 分かります(笑)。僕、ペットボトルの向きが変わっていたら嫌でした。

パンチ 何でも良いよっていうくらいじゃないとダメなんだよね。そのズレは結局どうなっていったの?

藤田 ズレに気づいたときには、血の気が引きました。コントロールが悪いままプロに入って、コントロールをつけるためにあらゆることをして10年費やし、10年目でこれかと思って。自分を信じられなくなったというのが一番でしたね。そこから、引き際を考えるようになりました。

パンチ 真面目すぎるよな。

藤田 セットアッパーと言われる資格もないな、と思いましたし。

パンチ 鹿取(義隆=現巨人GM)さんなんか、適当だったもんね。代わっていきなりど真ん中投げて、バッターもビックリしちゃうんだ(笑)。

藤田 鹿取さんには、少しだけアドバイスをいただいたことがあります。「シュートはどうやって投げるんですか?」と聞いたら、「頭を横に倒せばシュートするよ」って。どんだけ適当なんだって思いました(笑)。でもプロフェッショナルの感覚としては、そうなんだと思います。

パンチ 最後、ヤクルトに行ったときは石川(雅規)だとか石山(泰雅)だとか、秋田出身がそろってたよね。

藤田 石川は幼馴染なんですよ。年も一緒で、田んぼを挟んで石川の家だったんです。

パンチ 小さいころもすごかった?

藤田 背はあんな感じでしたけど、すごい球を投げていましたね。石川にも「最後、お前と一緒に野球ができてよかった」って話しています。小さいころからずっとライバルとしてやってきた友達ですからね。僕が現役最後、実戦で投げたのが秋田での試合だったんです。「石川君、太陽君」で盛り上がった思い出の場所で、最後も一緒に投げられてよかった。石川は今もウチのチームに差し入れしてくれるんですよ。

パンチ いいねえ!

藤田 ジュースとか、もちろんヤクルト製品ですけど(笑)。

<9月7日公開予定の後編へ続く>

●藤田太陽(ふじた・たいよう)
1979年11月1日生まれ。秋田県出身。新屋高から川崎製鉄千葉を経て、ドラフト逆指名1位で2001年阪神に入団。2年目の02年にプロ初勝利を含む2勝(5敗、防御率3.61)を挙げるが、故障もあってかそれが阪神時代のキャリアハイ。09年途中に西武へ移籍すると中継ぎとして活躍し、10年には48試合で6勝3敗19ホールド。13年ヤクルトに移籍し、同年限りで引退。通算成績は156試合13勝14敗4セーブ、防御率4.07。現在はCIFA株式会社でオーガニック食品の輸入販売事業に携わりながら、講演活動や富山のロキテクノベースボールクラブの投手兼任コーチなど多方面で活躍中。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。山形県南陽市のラーメン大使。

写真=BBM
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