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阪神生え抜きで唯一2000安打を達成した男の転機とは?

 

9月6日の広島戦で2安打を放ち、2000安打まで残り2安打と迫った阪神鳥谷敬。いよいよ大記録達成へ秒読みに入ったが、これはチームの生え抜きとして2人目の偉業となる。阪神で唯一の2000安打達成者は藤田平。“牛若丸”吉田義男からショートのレギュラーを奪った男だ。

208打席連続無三振記録も樹立


左打席からきれいなスイングで安打を量産した


 1966年、藤田平は市和歌山商高からドラフト2で阪神に入団した。1年目から68試合に出場し、36安打を放ったが、「オレが打席に立つと外野が前に出てくる。これが悔しくてね」。秋季キャンプで猛練習を重ねてバッティングのコツをつかみ、打球が外野手の頭を越えるようになった。

 その感覚を逃さないように、オフもしっかり振り込んで2年目のシーズンを迎える。その結果、154安打でリーグ最多安打。名手・吉田義男をセカンドに追いやり、ショートの定位置を獲得した。しかし、3年目は相手に研究もされて124安打に終わった。だが、そこで感じたことがあったという。

「感覚を逃したくないから、練習を繰り返した。これが疲労につながった。そこで休みも重要な練習だと感じた。この最初の2〜3年間で、プロでやっていく術を学んだね」

 ちょこんとバットを担いで左打席に立ち、力みのない好打者らしいきれいなスイングでヒットを量産。藤田のシュアなバッティングに阪神ファンは酔いしれた。78年には208打席連続無三振記録を樹立(当時)した。

メジャーの試合に触れて感じたこと


 ただ、順調に野球人生を送ってきた藤田にも転機があった。それは1979年4月に負った左足の肉離れだった。ケガがなかなか癒えない藤田に対し、ドン・ブレイザー監督が業を煮やし、アメリカで治療させるようにと球団に主張。助っ人のラインバックの紹介もあり、ロサンゼルスのフランク・ジョーブ博士の下へ足を運ぶことになった。

 アメリカではひたすらリハビリの日々。夜になると暇になり、ドジャースの試合を観戦しに出かけた。初めて球場でメジャー・リーグの試合を見て、“衝撃”を受けた。

「まず、ファンが楽しんで野球を見ていた。そして、選手たちも楽しみながらプレーをしている。それでいいんだ!! と思った。ファンの人に僕が日本でプロ野球選手をしていると伝えると『楽しんでいるかい?』って必ず聞いてきて。それが衝撃的だった」

 結果が悪ければ自分を責め、ファンやマスコミから叩かれて当然といった風習のある伝統球団。それでも、チームが勝つために黙々と試合に出て、ヒット打ち続けてきた。しかし、メジャー流の考えに触れ、心境に変化が生まれた。

「明けても暮れても野球のことを真剣に考えていたけど、そうでなくて楽しめばいいんだ、と」

一塁コンバートで打撃に専念


83年5月3日の巨人戦で角から2000安打を達成した


 この時点で藤田の安打数は1649本。2000安打まで、残り351本だった。79年9月に復帰を果たしてからは、楽しむ気持ちで打席に入った。その効果なのか、凡退しても後を引きずらなくなり、次の打席を考えるようになったという。さらに、一塁にコンバートされ、バッティングに専念できるようになったことも相乗効果となり、安打を積み上げていくことになる。

「何か一塁だと野球のゲームに参加していない感じ。自分の打席だけ試合に参加している感覚だった。だから、めちゃくちゃ体的にはラク。これなら打てるやろ、と。ショートというしんどいポジションで頑張るよりも、早く一塁にコンバートされれば良かったと思ったね(笑)」

 81年には巨人・篠塚利夫とのデッドヒートを制し、打率.358で首位打者を獲得。さらにカムバック賞も受賞し、「野球をやっていてよかった」と喜びを爆発させた。そして2年後、ついに阪神の生え抜きで誰も到達したことのなかった頂へ届いたのだ。

 83年5月3日の巨人戦(後楽園)、9回表に角三男から左中間へ安打を放ち、史上15人目の2000安打を達成したのだ。

「もし、アメリカに行かなかったら、昔の考えのままでプレーをし続け、引退が早まったかもしれない。打ちたいと思っていた2000安打もマークできなかったかもしれない」

 翌84年限りで引退した藤田。通算安打は2064だった。

写真=BBM
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