今年は10月26日に行われるドラフト会議。毎年、金の卵たちが、どの球団へ進むか大きな注目を集める“一大イベント”で、さまざまなドラマも生まれる。今年で53年目を迎えるドラフト会議の歴史を週刊ベースボールONLINEでは振り返っていく。 最大30人の希望選手名簿を提出
1965年11月17日 第1回ドラフト会議(日生会館) [1位選手(×は入団せず)]
近鉄
田端謙二郎(電電九州)
サン
ケイ 河本和昭 (広陵高)×
東京
大塚弥寿男(早大)
広島 佐野真樹夫(専大)
阪急
長池徳二 (法大)
大洋 岡正光 (保原高)
西鉄 浜村孝 (高知商高)
阪神 石床幹雄 (土庄高)
東映
森安敏明 (関西高)
中日
豊永隆盛 (八代第一高)
南海
牧憲二郎 (高鍋高)
巨人
堀内恒夫 (甲府商高)
最初ということで球団関係者も、報道陣も、だれもが、そして、すべてが手探りだった。
事前に各球団は最大30人の希望選手名簿を提出。そのなかで12人以内に希望する順位をつけた。これにより1球団だけ1位をつけた選手は、自動的にその球団に交渉権が確定し、2球団以上が重複している場合は抽選となる。さらに、それに外れたら2位希望選手を選択し、それも重複したら、また抽選。これを繰り返しながら、まず1位を決める。2位以下は、最下位球団からのウェーバー順で折り返しながら指名。その際は、最初につけた希望順位はまったく関係ない。
始まってみたら1位指名で重複したのは、森安敏明に東映とサンケイ、田端謙二郎に近鉄、広島がかち合っただけ。クジ引きの結果、森安は東映、田端は近鉄が交渉権を獲得した。
阪神が1位で、まったく無名の投手・石床幹雄を指名すると、あちこちから「誰だ?」の声が挙がったが、指名の重複を避けようとする各球団の駆け引きにより、かなりギクシャクというか、正直「なんで1位に」という選手がたくさんいた。巨人は、その後、9連覇時のエースとなる堀内恒夫を単独指名。堀内以上の評価があった銚子商高の右腕・
木樽正明はウェーバー順となった2位の3番目で東京が指名している。
1位指名で大成したのは、堀内と長池徳二だけ。森安も入団時は光ったが、黒い霧事件で永久追放となった。
また、この年のドラフトの出世頭は阪神が1位で指名するとウワサされていた育英高の左腕投手・
鈴木啓示だ。2位で近鉄入団後、通算317勝を挙げることになる。打者では市和歌山商高から2位で阪神に入った
藤田平が虎ひと筋で通算2000安打を達成した。
<次回に続く>
写真=BBM