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“運”を味方に、“努力”を重ね2000安打へたどりついた阪神・鳥谷敬

 

9月8日のDeNA戦で2000安打を達成した鳥谷


 新人時代の2004年から連続試合出場を続けている阪神鳥谷敬。今季は鼻骨骨折のアクシデントにも見舞われたが、それでも打席に立ち続けた。この不屈の精神が2000安打達成へ向かわせたのは間違いない。それと同時に新人でレギュラーを獲得した“技術”と“運”もまた、偉業達成への大きなきっかけとなったことは確かだろう。

「鳥谷を取りにいくとき、星野(仙一)監督が『1年目から100試合は使うから』と言っとったんよ。ただ、オレも心の中では最初から鳥谷を使おうと思ったんや」

 鳥谷が入団したときの監督、岡田彰布氏はそう振り返る。シーズン序盤は本来の遊撃ではなく、三塁を多く守ったが、プロの試合に慣れさせるため、という意味合いもあった。さらに、04年はアテネ五輪が開催され、そこに日本代表として遊撃手の藤本敦士(現二軍守備走塁コーチ)が呼ばれることが分かっていた。このタイミングで岡田監督は鳥谷を遊撃手に据える予定でいたのだ。

「藤本さんが五輪でいなくなると分かり、何とかしてショートのポジションを取りたいと思って、夏ぐらいからそこを目指して頑張ったんです。そして、チャンスが来たので離したくないと思いました」

 鳥谷は確実に“運”を味方につけ、遊撃のポジションに取り組み、2年目にはガッチリとその座をつかんだ。そして05年、打順は六番スタートも交流戦を契機に二番打者として固定される。この二番に固定されたことが、後の鳥谷のプロ生活の礎になったことは間違いない。

 一番打者には俊足の赤星憲広。屈指の盗塁王が塁に出ると、真っすぐ中心の配球となり「やりやすかった」と鳥谷も言う。そういった状況で、打撃に磨きをかけていくことができた。首脳陣から「ゲッツーを打ってもいい」と制約がなかったことも飛躍を促した。

 ただ、“運”を味方につけただけではない。ホームゲームときには午後6時スタートの試合でも、朝10時過ぎには球場に入り、ランニングを繰り返す。昨年の不振時にも、そのルーティンは崩さない。そういう日々の努力を積み重ねて、強い体を作り上げられたことが、長い間レギュラーを張れた要因だ。

 本人にとって、それは当たり前のことで「努力ではない」と思っているだろう。だが、そのプロフェッショナルな姿勢が、背番号1を球団の生え抜き選手では藤田平に続く2人目の2000安打へ導いたといえる。

写真=佐藤真一
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