ヤクルトの日本一に貢献

ヤクルト時代はファンに愛された選手だった
9月19日、ヤクルト、
阪神に在籍した助っ人、
デーブ・ヒルトン氏の訃報が飛び込んできた。
彼は日本球界で天国と地獄を見た男だった。
1972年にメジャー初昇格し、74年にはパドレスで74試合に出場しているが、以後出番が激減。76、77年とメジャー出場がなく、移籍先のインディアンスから解雇されたときは、野球をやめる覚悟をしたという。
しかし、このときユマで春季キャンプをしていた日本球界のヤクルトが新外国人を探しているという話を聞いて、自ら便箋5枚の売り込み状を書き、キャンプでテストを受けて入団にこぎつけた。
佐藤孝夫コーチは左右に打ち分ける打撃を見て「絶対に日本で通用します」と推したが、
広岡達朗監督はあまり乗り気でなかったようだ。実際、ほかの選手獲得の予定もあったようだが、その選手の夫人が日本行きに反対したことで消去法で入団が決まった。
結果的には、それがヤクルトの幸運にもなる。78年は広岡監督の下、ヤクルトが球団創設以来初優勝、日本一を決めたシーズンでもあるが、この栄光は間違いなく、ヒルトンがいなければ成し遂げられなかった。
極端なクラウチングフォームでキャンプでは「日本では内角を攻められ、絶対に打てない」という評価もあったが、開幕から絶好調。12試合連続、さらに1試合空けて、6試合連続安打。主に「一番・セカンド」に入り、4月の月間打率.346、5月は.410と打ちまくり、チームのスタートダッシュをけん引した。
決してきれいなヒットばかりではなかったが、「野球は何が起こるか分からない」と常に全力疾走。ほかの選手もそのプレーに鼓舞された。シーズン後、
巨人の
長嶋茂雄監督が「ヒルトンのあのハッスルプレーにやられました」と語っていたほどだ。
夏場以降、調子を落としたが、それでも最終的にはリーグ8位の打率.317。19本塁打と長打力もまずまずで、初回先頭打者本塁打8本は当時の日本記録でもあった。さらに同年、阪急との日本シリーズでも1勝2敗で迎えた4戦目、4対5とリードされた9回表には勝ち越しの逆転2ラン。日本一に向けて勢いをつけている。
2年目は一転、打撃不振。チームも大不振に陥り、広岡監督はフロントと衝突し、途中退任。ヒルトンもオフにクビを切られた。
その後、阪神監督の
ブレイザーに誘われ、80年の春季キャンプ中に阪神入り。しかし打撃不振に加え、大型新人・
岡田彰布の起用問題があった。阪神ファンは、とにかく岡田が見たかったが、だぶつき気味の内野陣の中で、岡田の出場のチャンスがあると思われたファーストにブレイザー監督はヒルトンを入れた。
まさにとばっちりではあるが、阪神ファンの大バッシングを受け、ヤジられまくり、打席に入ると、大「岡田
コール」。夫人とともに乗っていたタクシーをファンが囲み、揺さぶる事件もあった。最終的には5月10日に退団。その後、マイナーでプレーし、引退後は台湾球界で監督もしている。
父母が教師ということもあるのか、非常にマジメな性格で、日本に溶け込もうと努力していただけに、切ない日本ラストイヤーとなった。
9月17日死去。まだ67歳だった。
写真=BBM