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キセキの魔球

【キセキの魔球15】親友の墓参りと、パチンコ屋のオトン

 

2017年6月19日。大家友和は現役引退を発表した。日米を股にかけて活躍した右腕だが、もしナックルボールと出合っていなければ41歳まで野球を続けることはなかっただろう。どこまでも野球と愚直に向き合った大家とキセキの魔球を巡る物語――。

現役続行の最後の賭け


2010年、横浜に復帰した大家だが、11年限りでチームを離れた


 2011年、冬。大家友和の右肩の前後には、赤く小さな傷痕があった。内視鏡手術の痕だ。その年の9月27日、神奈川県横浜市の病院で肩のクリーニング手術を受けている。関節唇の毛羽立ちをきれいにし、一部の骨を削って可動域を広げる治療だった。

 それは、12年ぶりにアメリカから古巣横浜ベイスターズに戻って2シーズン目の秋のことだ。06年、大リーグのミルウォーキー時代にローテーターカフ(回旋筋腱板)を痛めたときは、手術を回避し、理学療法とトレーニングでしのいでいる。だがその後も肩の“虫”は大家を悩ませた。おとなしい日もあれば、突然の痛みとなって暴れる日もある。

 横浜2年目の11年は、肩に注射を打つほど深刻化していた。痛くない場所を探しながら投げるのはもう無理だった。ごまかしはもう効かない。たとえ根治治療を選んだとしても、肩にメスを入れるリスクはあった。手術しても、必ず元に戻るという保証はなかった。

「奇跡的に治って、もしも肩が戻ったら、このストレスから解放されるかもしれないと思いました」

 このとき、大家は35歳。現役続行の最後の賭けとして、彼は右肩手術に踏み切った。

 術後3日目には、横須賀にあるベイスターズの二軍施設でリハビリを開始している。1週間後に抜糸を終え、右ヒジの先から運動を開始した。10月半ばにジョギングを始め、リハビリを本格化させる。筋力を戻しつつ、肩や体全体の柔軟性を高めるトレーニングを続けた。12月上旬、肉体を80パーセントの状態にまで回復させ、いよいよ地元京都で投球練習を再開する。2〜3メートルのキャッチボールから始めた。最初は怖かったが、その恐れは次第に薄れていく。投げているときも、投げ終わった後も肩のストレスを感じなかった。手術前は腕の振りと一緒に球が落ちてしまったが、手術をしてからは球がグーンと伸びる感じだ。

「怖さがなくなって、ボールを力強く投げられるようになりました。ホワイトソックス(08年)のときよりも調子がいいです。これから柔軟性も上げていき、気温も上がってくれば、もっと良くなる」

 横浜ベイスターズが大家との契約3年目のオプションを行使しないと決めてから、大家はどこにも所属せず、個人的にリハビリとトレーニングを続けていた。週に4日は後輩を相手にキャッチボールをした。自宅からクルマで15分ほどのところにある公園が投球練習場所だった。その公園には、野球をする少年やゲートボールを楽しむ老人もやって来た。混み合うときにはクルマを走らせ、別の公園を探した。

 そもそも9月中に手術を決行したのは翌春に間に合わせるためだった。調子を上げていけば、2月ごろには各球団のテストを受ける準備が整うだろうと思っていた。しかし、春を迎え、初夏になっても、彼の肩は戻らなかった。戻ってきたのは再び、あの痛みだった。

「手にちゃんと引っかかるし、感覚だけはいいときのまんまなんです。それなのに、(捕球をする側が)きてないって言うんです。もう以前の自分には戻れない。あの(術後)12月に投げていたころがピークでした。あのときから止まったままです。まったく良くならないなんて、誰も思いもしなかった」
 
 まさに絶望の淵だった。

初めて吐いた弱音


 12年、夏。京都にお盆の時期がやって来た。大家は、京都成章高校野球部の同期だった友人の墓参りに出かけた。大槻くんというその仲間は、4人いた同期のピッチャーの一人だった。しかし、大家がアメリカで投げ始めてしばらくして、大槻くんは交通事故で突然亡くなってしまう。01年、ボストン・レッドソックス傘下の3Aポータケット・レッドソックスで、リーグ117年史上3人目のパーフェクトゲームを達成した夜、大家が9回表、センターフィールドを見上げて思い浮かべたのが、この大槻くんだった。

「野球が大好きなヤツでした。あんなに野球が好きなヤツが死んでしまって、もう野球ができないというのに、僕は今、こうして元気に野球をしていられる。あいつのことを思ったら、あいつのためにやってやろうと思いました」

 完全試合を達成した夜、彼は知人にそう語っている。

 例年は京都に帰るオフシーズンの寒い時期に寺へ行った。墓を磨くための水がいつもは冷たかった。だから、夏の墓参りはその年が初めてだ。プロ野球選手になって19年目で初めて、彼には投げる所属チームがなかった。

 寺に向かう前、コンビニで線香とビールを買った。水を掛けながら、墓石を磨いた。そして大槻くんに向かって話しかける。

「もう、ええやろ。もう無理や。やめるわ」

 それまで誰にも言わなかった弱音を吐いた。痛みを押して投げても球は一向に速くならない。どの道、先行きは真っ暗だった。気持ちがもたなかった。どうやって奮い立たせていいのか分からなかった。肩が戻ることをただ一つのモチベーションとして、術後ほぼ1年、トレーニングを積んできたのだった。

 そのとき果たして“大槻くん”は何と答えただろうか?

「ふ〜ん、と言って、それから、どうせおまえはやるやろ、どうせおまえはやめへんやろ、そんなふうに言ったでしょうねえ」

終わりにするはずの日に再スタート


 墓参りのあと、幼馴染とあるパチンコ屋で落ち合うことになった。たまたまにして、そこは大家の父の行きつけの店であり、亡くなる直前、オトンはその店で倒れているのだ。友人と落ち合って遊び始めると、最初は負けが込んでいたのだが、その夜はこれまた偶然にもお盆の特別営業で時間延長となり、彼は負けを取り返した。野球人生の崖っぷちの日に、大家友和は彼ともっとも強くつながる人物2人の魂に触れたのだ。

 大家はこの日のことを不思議なくらい鮮明に覚えているという。それは、彼にとっての“始まりの日”になったからなのか。終わりにするはずの日に、彼は再び歩き始めた。体裁よく散ることを選ばず、いばらの道をもう少しだけ進み、汗と土と血にまみれて幕を引くことを選んだのだ。それは、金や名誉が入り込む余地のない場所で、大好きだった野球への彼なりの落とし前のつけ方だったのかもしれない。

 墓参りの直後、大家友和はナックルボールを投げ始めた。

 もちろん、それがどれほど孤独で、過酷な道のりであるか、このときの彼は想像もしていない。ただ、ナックルと突き進んだその後の5年間で、彼は野球人として求め続けたもっとも大切なものをようやく手に入れる。

「もしも5年前にやめていたら、自分の存在自体がもっと薄っぺらいものだったかもしれません。普通にそこそこ稼いで、普通に終わっていたんじゃないかなあ。この5年のほうが自分らしくできたし、自分自身を高めていくことはできたかなと。そして、僕という人間を理解してもらえるようにも思えて、すごくいい時間だったのかもしれません。あいつ、まだやってんの、まだ続けてんのって思ってくれるだけで、この5年やっていた意味がある」

 ナックルを投げ始めて半年後、大家はナックルボーラーとして北陸を拠点とするチームと契約する。富山県高岡市。そこは、大槻くんが大学時代を過ごした町だった。

<次回10月11日公開予定>

文=山森恵子 写真=BBM
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