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キセキの魔球

【キセキの魔球16】ナックルボールは、葬られた者たちの最後の砦。男の生き様だ

 

2017年6月19日。大家友和は現役引退を発表した。日米を股にかけて活躍した右腕だが、もしナックルボールと出合っていなければ41歳まで野球を続けることはなかっただろう。どこまでも野球と愚直に向き合った大家とキセキの魔球を巡る物語――。

ナックルは“生き様”


大家が初めて出会ったナックルボーラーは、のちに広島でプレーしたフェルナンデスだった


 1999年、大家友和がボストン・レッドソックスに入団したとき、チームメートにジャレッド・フェルナンデスというナックルボーラーがいた。アメリカ西部、ユタ州ソルトレークシティー出身のプロ6年目の選手で、もともとは速かった球速が頭打ちになり、チームの勧めでナックルボーラーに転向していた。大家は4歳年上のこのフェルナンデスととてもウマが合い、遠征先ではよく同じ部屋になり、フィールドではキャッチボール相手になった。

 フェルナンデスの投げるナックルは衝撃的だったという。

「そうです、まるで生き物のようでした。アクション(ナックルの揺れ方)が、生き物のようでした。でも、今はもっと深い理解が僕にはあります」

 あのころの、近しかった一人の仲間の投げ込むナックルの意図を、10年以上たち、自分がナックルボーラーとなって初めて理解する。

「あのボールは、彼の生き様なんだと。このボールで生きるんだという意志の強さを表したボールなんだと」

 当時のフェルナンデスにはすでに妻と子どもがいた。まだメジャー・デビュー前のマイナー・リーガーの稼ぎは多くない。生活のためにオフシーズンに働く選手は少なくなかった。フェルナンデスもその一人。家族を養いながら、いつか必ずメジャーに這い上がるために、マイナーで投げ込む渾身のナックルボール。生きるためにバックスピンを封印して闘う魂の一球だ。生き物に見えたのは、彼の意志の強さがそうさせたのだと、のちに大家は深く理解する。そして、フェルナンデスは、8年間のマイナー生活を経てシンシナティー・レッズでようやくメジャー・デビューを果たした。

広島でフェルナンデスのナックルを受けた高校時代の女房役


高校時代、大家の女房役だった現広島二軍バッテリーコーチの倉は現役時代、フェルナンデスのナックルを受けた


 ジャレッド・フェルナンデスとの出会いが、ナックルボーラーに転身する大家友和の一つめの布石だとしたら、その伏線は別の理由によってさらに太いものとなる。2007年、フェルナンデスは広島カープに1年間在籍するが、このとき、彼のナックルを受けたのが、大家が京都成章高時代にバッテリーを組んでいた同期の捕手、倉義和(現広島カープ二軍バッテリーコーチ)だった。

 広島時代、フェルナンデスは投球のほぼ8割、ナックルを投げている。あとの2割は主に真っすぐとスライダー。アメリカでは、ナックルを投球の主体に置くピッチャーのことを、ピュア・ナックルボーラーと呼ぶ。フェルナンデスは純然たるナックルボーラーだった。倉は、不規則に揺れる魔球をどうさばいていたのだろう。

「軌道が揺れてから、落ちる、落ちないと、一球一球、不規則なので、できるだけギリギリ体の近くで捕るようにしていました。キャッチャーというのは、ピッチングの軌道をイメージして構えるんですが、どこに落ちるか分からないので、とても神経を使う球でした。疲れる球でしたね。ドーム球場と屋外とではまったく(球への作用が)違うので、風がないドームのほうが思うようにはいっていたみたいです」

 ナックルボールがピッチャーの手を離れてからキャッチャーミットに届くまでの時間は、通常の球よりも平均で0.2秒遅いとされる。そうなれば盗塁される確率が高まる。予測不可能な変化の球であるから、捕逸も増える。まさにキャッチャー泣かせだ。捕球範囲を補うために、一塁手ミットのような特大のナックル専用のミットを用意する人もいる。

「大きいミットを用意したほうがいいんじゃないかとも言われていましたが、僕はそのまま自分のミットを使っていました。盗塁に関しては、牽制を入れたり、投げるタイミングを変えていました」

 倉と大家は、ともに40歳過ぎまで現役を続ける。大家がナックルボーラーとして再出発したのは36歳になってからだ。かつてのバッテリーの転身を倉はどう感じていたのだろうか。

「今まで自分が普通に投げていた真っすぐを投げられないようになってしまったから、ナックルを投げる、成績が出るか出ないかはともかく、挑戦することがすごいです。ナックルボーラーになっても、ナックルだけでは抑えられないので、ストレートもしっかり投げられないと。ウェイクフィールドも130キロの真っすぐとか投げていますから」

 ティム・ウェイクフィールドとは、レッドソックスで200勝を挙げ、2011年45歳で引退したナックルボーラーだ。大家は、フェルナンデスとウェイクフィールドを含め、アメリカで4人のナックルボーラーとチームメートになっている。3人目は、シカゴ・ホワイトソックス傘下3Aで一緒だったチャーリー・ヘイガー。そして最後に出会ったのが、2012年にナックルボーラーとして初めてサイヤング賞を受賞したR.A.ディッキーだった。

 この4人に共通すること、それは、彼らがもともとはナックルボーラーではなかったということだ。メジャー・リーガーになるために、あるいはメジャー・リーガーであり続けるために、ナックルを投げるほか、彼らに残された道はなかった。そして4人全員がチームの勧めによってナックルボーラーに転向している。

古典的で、遊びゴコロ満載


ナックルボーラーとして通算200勝を挙げたウェークフィールド(写真=Getty Images)


 ナックルボーラーとしての動機付けは大家も彼らと似ていた。2011年の肩の手術から半年以上過ぎても痛みから解放されず、現役続行の切り札としてナックルボールにかすかな希望を見出した。だが、投げ始めは昔の自分に未練を残していた。ナックルを投げていたら、もしかしたら奇跡的に肩が元に戻るかもしれない、そんなふうに思っていたのだ。

 年をとったらナックルボールでも投げようかなというのは、野球選手にとっての一つの夢だそうである。アメリカの選手の中には小さいころにお父さんから投げ方を教わり、キャッチボールで遊んだという人もいて、メジャー・リーガーになってからも練習中に遊びでナックルの真似事をしたりする。ナックルの球速は時速60マイルから70マイルと緩く、肩の負担が少ない。さらに歴史的に見ても40代まで活躍した人が少なくないのだ。野球殿堂入りしたナックルボーラーは4人いるが、その中で唯一、中継ぎだったホイット・ウィルヘルムという人は、49歳と11カ月までメジャーで現役を続けた。ナックルボールが肩にやさしく、延々と活躍できるとしたら、ピッチャーにとってこんなにいいものはない。

 その握り方も独特であり、究極のバックスピンが求められる現代に逆らい、100年昔から無回転。古典的で、ノスタルジックであり、遊びゴコロにあふれている。だから一度は投げてみたくなる。しかし、たとえプロでもほとんどの選手がまともにナックルを投げられない。

 大家もメジャーで活躍していたころ、キャッチボールのはじめに遊びで数球投げていた。

「たまに投げようと、冗談のようなことはしていました。それは、投げられないことを前提にしてのことです。あのような握りで投げることができるというイメージはまったくありませんでした。ナックルボールへの興味同僚にナックルボーラーがいたというだけではなく、ピッチャーとしての探究心からです。ナックルボールでどのようにアウトを取るのか、興味がありました。でも、(当時投げていたナックル)ボール自体が回転してしまっているので、ナックルと呼ぶにはどうかと……」

 2012年の浪人時代、大家がナックルを投げるのは練習のはじめの数球だった。それがあるときからナックルを投げ込む回数が増えていく。そして捕球する後輩に聞くようになった。

「今のどうや?」「回転してる?」と。

 このころの彼は3本の指をボールにかけている。親指と小指でボールの両脇を支え、残りの3本の指を立ててつかみ、その3本でボールを押し出す。

「最初は2本で握るイメージがまったく湧かなかったんです。(ほかのナックルボーラーが)2本でやっていることは知っているんですけど、どうにもこうにもうまくいかず、2本でやると絶対回る、クルクルと。今度は爪を切って、削りまくって、めちゃくちゃ短くしてやってみたりとかもするんですけど、それでも、なかなか感じがつかめず、それからたまに無回転になったり、ならなかったり、葛藤がありましたね」

 最初、彼は爪をボールに立てていた。その後は、指先の肉をボールにあてがうようになる。そして2本の指をかける握りをマスターした。親指と薬指でボールを挟み、人差し指と中指を第一関節から折り曲げ、指先をボールに食い込ませる。これが、大家友和の見つけた究極のナックルの握りだった。

「ナックル=Knuckle」とは、英語で指の付け根の関節という意味だ。しかし、第1関節を折り曲げて、実際にナックルと呼ばれる部分をボールに接地させて握るナックルボーラーは少なく、ほとんどの人が指先、もしくは爪を立てて握っている。

見出された価値


 本格的にナックルを投げ始めて数カ月後、エージェントが初めて大家のナックルを見た。

「日本人選手の中ではより身近にナックルを見ていた人ですし、ナックルの完成形を知っているのはプラスだと思いました。初めて大家さんのナックルを見たとき、率直に悪くないと思いました。引き続き練習していって、引き続き気持ちが持つのであれば、日本の独立リーグでまずは実戦経験が必要かなと思いました」

 ここが重要なポイントになる。もし、あのとき、エージェントがまったく価値を見出さなければ、ナックルの道は閉ざされていたからだ。

「私の一番の懸念は大家さんの気持ちでした。選手はいつか現役生活が終わります。球速が130キロくらいになってしまった大家さんは、プロの投手としては厳しい状況でした。大家さんには納得いく形でやめてもらいたかったですし、そういう状況を自ら知った上で、ナックルボーラーというアイデアを出し、練習に取り組まれたと思います。誰もやったことのない取り組みなので、いつ気持ちが折れても、それはしょうがないと思いました。しかし、大家さんは気持ちを切らさないどころか、ナックルをどんどんものにしていきました」

 大家はのちに言っている。

「僕のばかげた挑戦を信じた人も、疑った人も、どこかで大家はまたやらかすんじゃないのかなって、面白みを持っていたかもしれません。一番そう思っていたのが、この僕でした」

 ナックルに本腰を入れてじきに彼は気づいた。片手間で手なずけられるような代物ではないことを。まして、世界最高峰のナックルボーラーのすさまじさを目の当たりにしてきた彼は、自分の目指すナックルの理想も高く掲げたはずだ。バックスピンを封印し、無回転の球と格闘する日々の中で、次第に彼は本物のナックルボーラーへと成長していく。かつてフェルナンデスの球がそうであったように、大家友和の投げ込むナックルボールは次第に意志を持ち、彼の生き様がくっきりと映し出されるようになるのだ。

<次回10月18日公開予定>

文=山森恵子 写真=BBM
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