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キセキの魔球

【キセキの魔球17】史上最強最速ナックルボーラー、R.A.ディッキーの真実

 

2017年6月19日。大家友和は現役引退を発表した。日米を股にかけて活躍した右腕だが、もしナックルボールと出合っていなければ41歳まで野球を続けることはなかっただろう。どこまでも野球と愚直に向き合った大家とキセキの魔球を巡る物語――。

7分間の話し合いで決まったピュア・ナックルボーラーへの転身


メッツ時代、R.A.ディッキーはナックルボーラーとして、初めてサイ・ヤング賞に輝いた


 それはちょうど、大家友和が本格的にナックルボールを投げ始めた秋だった。

 2012年、アメリカの野球界は衝撃的なニュースに沸いていた。MLBで唯一の現役ナックルボーラー、R.A.ディッキーが、ナックルボーラーとして史上初めてサイ・ヤング賞を受賞したのだ。ニューヨーク・メッツで20勝6敗を挙げ、防御率2.73はナショナル・リーグ第2位、投球回数233.2イニング、230奪三振、完封3度、完投5度はいずれもリーグ第1位に輝き、第1回投票で32票中27票を集める圧倒的な支持により、ピッチャー最高峰の賞を贈られた。

 その年の春、ディッキーは『Wherever I Wind Up』という、のちにベストセラーとなる自伝を出版している。自らの生い立ちと彼が抱えた闇を赤裸々に語り、心の浄化を経て、ようやく揺るぎない覚悟で魔球と対峙し、ついには史上最強のナックルボーラーへと成長していく物語だ。

 1974年、アメリカ南部テネシー州ナッシュビル生まれのR.A.ディッキーは、テネシー大学野球部時代、1996年のアトランタ・オリンピック代表に選ばれた。その年、テキサス・レンジャーズからドラフト1位指名を受けるが、契約当日、彼の右ヒジにはUCLと呼ばれる靱帯が欠損していることが分かる。球団は一旦、契約締結を断念。後日、当初の10分の1ほどの契約金でディッキーはレンジャーズに入団した。それからはマイナーとメジャーとを行ったり来たりする長い生活が続く。彼のような選手を“4Aプレイヤー”と呼ぶそうだ。3Aよりレベルは上、しかしメジャーに定着もできない。妻と子どもを養うため、彼は職を変えることを本気で考え始めていた。

 プロになって7年目の春、彼の将来は監督室でのたった7分間の話し合いで決まった。当時のレンジャーズの監督はバック・ショーウォルター(現ボルティモア・オリオールズ監督)。同席したピッチング・コーチは言った。コンベンショナル(従来の)・ピッチャーのままの君を今後メジャーで使うことはないだろう。唯一の道は、マイナーに戻って、ピュア・ナックルボーラーとして出直すことだと。当時のディッキーの持ち球はストレートと、カッター、チェンジアップ、そして1試合にほんの数球だけ投げていたナックルボール。祖父から教わった球だった。コーチたちはその数球に活路を見出せと言うのだ。

 当時、ディッキーのストレートは最高時の96マイルから86マイルまで落ちていた。投球フォームも崩している。野球をあきらめるか、それともナックルボールを磨いて再起を図るか、30歳の彼は選択を迫られた。それまで築き上げてきたものを葬り去れと言われ、彼は困惑した。しかし、そのときの心情をこうも表現している。

「自分が失ったものをまるでまだ持っているかのように見せかけることに、僕は疲れていました。この道がどこに続くのかまったく分からない。でも、その先に何が待ち受けているのか、早く知りたいとも思った」

先人たちから教わった大切なこと


 3Aでナックルボールを目指すことになったディッキーがまずしたことは、Google検索だった。ナックルの投げ方を調べようとしたのではない。彼が片っ端から調べたのは、歴代ナックルボーラーが30代になってから何勝挙げているかという実績だった。すると多くの先代たちが驚異的な勝ち星を挙げていることが分かった。ナックルボーラー歴代最多の318勝を誇るフィル・ニークロは、287勝を30代以降に積み重ねていた。チャーリー・ハフは182勝。当時もう1人の現役ナックルボーラーだったティム・ウェイクフィールドも100勝を挙げていた。

 次に彼はチームメートに聞きまくった。これまでナックルボーラーと対戦したことはあるか? ナックルを打つのはどんなところが難しく、簡単なのか? そして登板日には、フィールドに出る直前までウェイクフィールドの投球ビデオに見入った。

 レンジャーズの首脳陣はディッキーに転向を勧めたが、組織にナックルを教えられる指導者を抱えていたわけではない。3Aのピッチング・コーチは潔くも、私にはまったく分からず、だから教えることはできないとディッキーに言っている。つまり、這い上がりたければ自分で投げ方を探せということだ。

 ディッキーはナックルを進化させる過程で3人の歴代ナックルボーラーに教えを受けている。1人目は、ロサンゼルス・ドジャースやレンジャーズで活躍し、46歳まで現役を続けた200勝投手のチャーリー・ハフ。ディッキーはハフに素朴な疑問を投げかけた。なぜ、あなたはナックルを投げるようになったのですかと。そしてハフは答えた。

「マイナー時代のケガがきっかけだった。この球が、メジャーを目指す私に残された最後のチャンスだった」

 ディッキーはハフに習い、握りを変えている。このほうが回転を殺せるからだと、ハフは言った。さらにハフの教えどおり、四六時中、ボールに触れた。運転中は左でハンドルを握り、自分の子どもを抱くときも左側で、右手ではナックルの握りでボールを転がす。ハフはまた、とにかく投げまくれと教えた。毎日、毎日、キャッチボール相手に向かって投げろ、捕る人のいないときには壁に向かって投げろと。

 ディッキーは尋ねた。もしもナックルボールが打者に対して有効な球であるならば、どうしてもっと多くの人が投げないのですかと。

「それは、非常に忍耐を要する球だからだ。ほとんどの人はその苦しみに耐えられないからだよ」

 そしてハフは一番大切なことをディッキーに教えた。

「自分自身と、自分の投げる球を信じなさい。たとえ他の人が信じることをあきらめたとしても……」

 ディッキーは、ナックルを進化させる年月の中で、もがき苦しんだ。そしてある日、突然、大河ミズーリー川の対岸まで泳ぐんだと言って、チームメートの目前で激流の中へ飛び込み、本当に死にかけている。無謀な冒険から生還したあと、彼はもう迷わなくなった。一瞬ごとのナックルボールとの対峙に集中できるようになっていた。

ナックルボールの資料はYou Tubeのみ


ディッキーはフィル・ニークロ(左)からもナックルに関してアドバイスをもらった


 チームはディッキーに対して、ティム(・ウェイクフィールド)のようなナックルボーラーを目指せと言った。ウェイクフィールドの投げる球はおよそ60マイル。チームは彼のような緩いナックルを要求するのだが、ディッキーは抵抗した。

「ティムのようでなく、僕は僕なりのナックルボーラーを目指したい。僕は80マイルのナックルを投げたい。いろんなスピードのナックルを投げ込みたい。もし本気でメジャー復帰を目指すなら、僕なりのナックルボールを投げることしか道はない、僕はそう思った」

 ボストン・レッドソックス戦でウェイクフィールドと会う機会があった折、ディッキーはウェイクフィールドにできればブルペンでの投げ込みを見せてもらえないだろうかと頼んでいる。普通ならば敵チームの人間がブルペンをのぞくことなどあり得ない。ところがウェイクフィールドはチーム関係者の了解を取り付け、ディッキーに自分の投球を間近で見せた。

 実はウェイクフィールドもナックルの先人たちから秘訣を伝授してもらっている。普段はたった1人で鍛錬する孤独感や苦しみ、選手生命の危機に出合った魔球へ寄せる切迫感を、ナックルボーラーたちは共有するのだ。だから彼らは世代を超え、所属するチームの垣根を越え、ナックルボールを次世代へ受け継いでいこうとする思いにあふれている。

 ディッキーにとって3人目の伝道師は当時69歳のフィル・ニークロだった。

「君のナックルはまだ怠けている。もっと球にエネルギーを注げ!」

 もっと効果的に腰の動きを使えとフィルは指摘した。そうすれば無回転に近づき、さらに力強く、最後の最後に変化する球を投げることができるというのだ。

 フィルの助言は、探していたパズルの最後のピースを埋めてくれたと、ディッキーは言っている。それまで投球の6割だったナックルの割合を8割以上に頻度を高め、球の出力は上昇し、ディッキーは本当に80マイルを超えるナックルを投げ込むようになった。

「君の球は、怒りのナックルボールだ。これまでの歴代ナックルボーラーの誰よりも力強い。それは、君にとっての掛け替えのない財産になるだろう」

 フィル・ニークロがそう言ってから3年後の2012年、R.A.ディッキーはナックルボーラーとして史上初のサイ・ヤング賞に輝いた。38歳、遅咲きの不屈の投手の活躍によって、100年以上も脈々と受け継がれてきたナックルボールの系譜がついに喝采を浴びたのだ。

 2012年、日本で初のピュア・ナックルボーラーを目指した大家友和にとって、ナックルボールの資料と呼べるものは、主にYou Tubeの画像だけだった。ディッキー、ウェイクフィールド、そしてボストン・レッドソックスで投げ始めたスティーブン・ライト、あるいは無名の選手の投球画像も掘り起こし、ありとあらゆるタイプのナックルボーラーを分析して、ボールの握りや、腕の振りをつぶさに研究した。

 そして、大家は投げて、投げて、投げまくる。無回転のボールを投げるため、その再現性を高めるために、彼はひたすらキャッチボールを繰り返した。握りを工夫し、手首を意識し、捕球してくれる後輩に1球ごと確認した。今の球は回転したか、もししたならそれは何回転? 回転したのは前回転、それともバックスピン、あるいは横まわりのジャイロ回転? 変化はしたか? どんな変化の仕方だった?

 そんな毎日が半年ほど続いた2月のある日、ボールの赤い縫い目が大気を突き抜け、無回転のまま後輩に届いた。その無回転は一球だけではなかった。投げ込むほどに、同質の球が次々と届く。変化の度合いも大きい。出力も上がっている。そして、ナックルボールにおいて最も難しいとされる再現性が確実に高まっていた。

 You Tubeの中でしか存在しなかったディッキーが、その1年後、大家の目の前に現れる。2014年、トロント・ブルージェイズの春季キャンプで、2人はブルペンで同時にナックルボールを投げ込むことになるのだ。

<次回10月25日公開予定>

文=山森恵子 写真=Getty Images
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