近年は少なくなってきたが、プロ野球の長い歴史の中でアッと驚くようなトレードが何度も行われてきた。選手の野球人生を劇的に変えたトレード。週刊ベースボールONLINEで過去の衝撃のトレードを振り返っていく。 球団史上初の最下位。求められていた改革
78年11月16日、ホテル阪神で行われた田淵のトレード会見
[1978年オフ]
阪神・
田淵幸一、
古沢憲司⇔
西武・
真弓明信、
若菜嘉晴、
竹之内雅史、
竹田和史 その時、田淵幸一の目は真っ赤になっていた。1978年オフのことだ。日付は変わって11月16日午前3時。大阪・ホテル阪神の1階ロビーに姿を見せた「ミスター・タイガース」は、待ち構えていた数十人の記者を前に、怒りと興奮に震えながら切々と訴えた。
「西武へ行けと言われた。それもいきなりだ。人をバカにしている。これが10年間、阪神でやってきた者への仕打ちなのか。情けないよ」
愛着ある阪神からの深夜のトレード通告。次第に涙声になった田淵は沈黙が訪れると両手で顔を伏せ、うなだれながら涙を流した。
ドラフト1位で1969年に阪神へ入団し、球団記録(当時)の通算320本塁打を放っていた阪神の顔だった。ただし、ちょうど
巨人V9の時代と重なったとはいえ、阪神の優勝はこの間ゼロ。田淵自身もそのころは捕手としての肩の衰えだけでなく、闘志に欠けるプレーなどでしばしばやり玉に挙げられていた。
しかもこの年、阪神は球団史上初の最下位へ転落したばかり。新たに就任した小津正次郎球団社長には、思い切った改革が求められていた。小津は手始めに、阪神では初めての外国人監督(日系は除く)としてドン・ブレイザ―を招へい。「田淵放出」の青写真を描いたのは、このブレイザ―だったとも言われている。
目玉となるスターが欲しかった新球団・西武
真弓明信、若菜嘉晴、竹田和史、竹之内雅史の4選手が西武から阪神へ
一方、本拠地を所沢に移したばかりの西武は、新球団の目玉となるスター選手が欲しかった。最初は前年のドラフトで交渉権を獲得していた
江川卓を当て込んでいたが、入団交渉は難航を極めていた。田淵のトレードが表面化したのは、奇しくも「江川獲得」を断念した日でもあった。
トレード通告を受けた当初は引退も示唆していた田淵だったが、球団側の説得に徐々に軟化。1週間後には西武の
根本陸夫監督と会談し、ようやく移籍を了承した。こうして阪神は田淵と古沢憲司、そして西武は真弓明信、若菜嘉晴の若手コンビに竹之内雅史と竹田和史を放出する2対4のトレードが成立。当時は西武が「名」を、阪神は「実」を取ったトレードと言われていた。田淵はスター性こそあるものの、すでに下り坂と見られていたのに対し、真弓と若菜はまだ伸び盛りだったからだ。
しかし、田淵は移籍2年目の80年に43本塁打と復活。82年には
広岡達朗監督の下で主砲として初の日本一の美酒に酔うと、翌年も日本シリーズ連覇の原動力となった。真弓と若菜も期待どおりに新天地でレギュラーとして活躍。結果的にこのトレードは両球団にとって意味のあるものになった。
写真=BBM