近年は少なくなってきたが、プロ野球の長い歴史の中でアッと驚くようなトレードが何度も行われてきた。選手の野球人生を劇的に変えたトレード。週刊ベースボールONLINEで過去の衝撃のトレードを振り返っていく。 独特のひらめきで電光石火の布石
[1963年オフ]
大毎・山内一弘⇔阪神・小山正明
「世紀の大トレード」の発端は、永田オーナーの心の動きにあった。
永田雅一、大映社長で大毎オリオンズのオーナーだ。ケタ外れな行動力を持ち、独特のひらめきで電光石火の布石をした。1、2、3と順序を追うのではなく、1、5、8といった具合に、一気に結論へ飛びつく。流れに乗ったときのエネルギーは、すさまじいまでの威力で爆発した。
1963年のオフ――球界は、その永田言行録でびっしり埋まった。12月初め、まず
葛城隆雄−
前田益穂のトレードを
中日との間で断行。その際、山内一弘、
榎本喜八という三、四番打者の名をちらつかせて、
権藤博投手、
江藤慎一選手とのトレードを打診している。
ここに永田オーナーの心のうずきが読み取れる。いい投手が欲しい、さもなくばガッツを表面に出す選手。とりわけエースへのこだわりは大きかった。中日の拒否にあうと、必然的にターゲットは阪神へ移った。アンテナにかかったのは小山正明投手だ。
村山実とエースの座を分かつ男。それでいて両雄並び立たず、との評判が絶えない。かつて阪神にいた青木一三スカウトが派遣され、下交渉に当たった。
両チームの条件もぴったり合った。大毎で言えば、エース不在に泣きっぱなしだった。63年、
巨人から移籍した
堀本律雄=15勝、
坂井勝二=14勝、
小野正一=13勝と、そこそこはそろっていた。が、ここ一番で踏ん張る力には欠ける。
「17試合が9回にひっくり返されているんだ」という永田オーナー。リーグ優勝の60年から、3年経って、4、4、5位の色あせた下降グラフに、オーナーの悔しさがにじむ。そこへ小山を加入させたら……目が輝くのも無理はなかった。
“永田ペース”でトレードは実現
移籍1年目、小山は30勝をマークした
阪神にとってもそうだ。当時のクリーンアップは
並木輝男、
遠井吾郎、
藤井栄治でトリオを形成していた。爆発力で、巨人のON、中日のマーシャル、江藤の足元に及ばない。山内が入れば核が出来る。両球団の足りない分が補い合えるのだ。
となれば、永田オーナーは動きまくる。熱弁は時に「ラッパ」の響きにも似る。初め、大毎の働きかけにたじたじだった阪神も、大毎の行動力、実行力に巻き込まれ“永田ペース”で「世紀の大トレード」は実現した。
12月20日、東西同時発表のその日、山内の名前を挙げたとき、永田オーナーは思わず涙を流した。だが、そのあと、きっぱり言い切った。
「今までのとは違う、球界発展のため、そして本当のチーム強化につながる大物同士のトレード、その先鞭をつけたと信ずる」
大毎はこの年限りで「東京」と名称が変わる。毎日新聞系が完全撤退し、「毎」の字が不要になったためもある。そこで毎日子飼いの山内を……と見るのは、視野が小さい。素直に永田発言を受け入れるべきだろう。
東京−名古屋、東京−大阪を何度も空路往復し、常に空の上で作戦を練った永田オーナー。のべ行動半径は5000キロを超えたという。「派手好き」というひんしゅくも買ったが、最も“ゼネラル・マネジャー”らしい裸の経営者なのだ。
64年、東京は4位だったが小山は30勝した。山内は31本のアーチを架け、阪神優勝の力となった。小山の24勝目は通算200勝に当たる。その翌日、オーナー秘書から小山に届けられたのは、何百万円もする高級時計パテック。裏にはきちんと「二百勝記念、永田雅一」と彫り込まれていた。小山の思い出深い勲章の一つである。
大映が倒産し、晩年不遇だった永田オーナーは、ある日入院先の慶応病院へ小山を呼んだ。二人で2時間話し合ったとき、あの強気のオーナーがこう言った。
「いまオレは貧乏しとるが、幸せだよ。何よりも素晴らしい友達がいるからな」
その瞬間、小山は胸を詰まらせた、という。
写真=BBM