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トレード物語

【トレード物語09】キャンプ前に西武へトレードされた中日・田尾安志【85年】

 

近年は少なくなってきたが、プロ野球の長い歴史の中でアッと驚くようなトレードが何度も行われてきた。選手の野球人生を劇的に変えたトレード。週刊ベースボールONLINEで過去の衝撃のトレードを振り返っていく。

数時間前とは正反対の言葉


85年、キャンプ直前に西武へトレードとなった田尾(右から2人目)は同年のリーグ優勝に貢献した


[1985年1月]
中日田尾安志⇔西武・杉本正大石友好

 田尾安志は自らのトレードのニュースをファンからの電話で知ったという。

 キャンプイン直前の1985年1月24日、一部のスポーツ紙に出た「西武移籍内定」報道に対する問い合わせを受けたのだ。本人は球団から何も聞かされていない。ただ、この手の話を前年からたびたび耳にしていた。「またか」という気持ちを抱いたまま、10時ごろ、合同自主トレに参加するためにナゴヤ球場へ赴いた。

 球場入りしてすぐに鈴木球団代表と会い、事の真偽を問うた。鈴木球団代表は「田尾君、今朝のアレ(移籍内定のスクープ記事)はね、根も葉もない単なるウワサだから心配しないでくれ」と答えた。

 その言葉を受け、田尾は報道を気にすることなく練習を開始したが、13時ごろ突然、鈴木球団代表から球場監督室に呼び出された。てっきり「そんな(トレード)話はない」という旨を正式に聞かされると思っていた田尾だったが、鈴木球団代表の口から出た言葉はほんの数時間前に言い渡されたのとは正反対だった。

「西武とのトレードが決まったから、行ってくれたまえ」

トレードの発端は……


 そもそもトレードの発端は、右の大砲が欲しい西武が中日に大島康徳のトレードを打診したことにあった。83年、日本シリーズ連覇を果たした西武だが翌84年、テリーがドジャース入りし、田淵幸一は花粉症のあと、体力の限界を悟って自信喪失し、大砲不在となっていた。大島に狙いをつけ、根本陸夫管理部長が、中日・山内一弘監督に打診したのは5月だった。しかし、中日は早くも広島と優勝争いの可能性が出ておじゃんになった。

 だから、シーズンが終わると同時に西武はまた仕掛けた。だが、西武が持ちかけた「大島−杉本正、大石友好」は「大島−森繁和、杉本」という中日の希望が入れられず、立ち消えとなっていた。

 しかし、西武・広岡達朗監督、中日・山内監督はともに勝負をかけたい85年に、戦力補強を求めていた。84年、西武は3連覇を逃し、田淵、山崎裕之も引退して、新たな攻撃の核が必要だった。中日は小松辰雄郭源治鈴木孝政と右腕はいるが、左投手に泣いた。このままトレードの話を「なし」にするのは……。

 両監督の意をくんだ中日・鈴木球団代表、西武・坂井球団代表が同じテーブルに座るチャンスがめぐってきた。2人は偶然にも、プロ野球の中でさまざまある委員会の中の、福祉委員会のメンバーであったのが運命的だった。その会合が1月17日にあり、そこで鈴木球団代表が耳打ちした。

「お互い監督同士で悩んでいるのだから、このへんでトレードをまとめるのが潮時じゃないの。ウチも清水の舞台から飛び降りた気分で田尾を出そう」(鈴木球団代表)

「そういえば中日さんでは、田尾だけが年俸が未公開だったね」(坂井球団代表)

 田尾の契約更改は20日に行われた。1度目にチームが提示した4500万円からあっさり300万円アップして4800万円になった。中日では、6000万円の谷沢健一に次いでNo.2。球界全体を見ても8500万円でトップの広島・山本浩二から数えて、ちょうどベスト10の高給取りになり、田尾も「なんとか球団も分かってくれた」と笑顔を浮かべていたのだが……。球団はこのとき、このサラリーは西武が払うものと読んでいたからこそ、あっさり上げたはずである。

 ところで、田尾は球界屈指の好打者で、中日の看板選手だ。大島がダメで、田尾ならなぜ良かったのか。それは田尾がしっかりとした気骨のある男だったからだ。山内監督の打撃論を受け入れず、自分流を貫く。選手会長としてずけずけモノを言い、要求すべきことは要求するうるさ型だ。そういったところが煙たがられたのだろうが、人気者・田尾の移籍は中日ファンの反感が大きく、中日新聞の不買運動も起きたという。

 結局、田尾は西武で2年間プレーし、86年オフに吉竹春樹前田耕司とのトレードで阪神へ。5年間、タテジマのユニフォームを着て、91年限りで現役を引退した。

写真=BBM
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