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プロ野球回顧録

松井稼頭央 栄光のライオンズ時代

 

圧巻のスピード、強肩、野球センスで球界に旋風を起こした西武のスーパーアスリートだった松井稼頭央。2002年にはトリプルスリーも達成。その後、海を渡り、メジャーでもプレー。11年からは楽天でチームをけん引していたが、11月17日、ついに古巣・西武に復帰することになった。ここでは栄光に彩られたライオンズ時代を中心に松井の野球人生を振り返っていこう。

日米野球で大活躍


高い身体能力で数々のスーパープレーを生んだ松井


「あいつは陸上でメダル取れるんやないか。いまならまだ間に合うで」

 西武時代、高校の先輩でもある清原和博がそう言ったことがある。ある大学の陸上関係者はダッシュの練習を見て、「30メートルまでなら、日本の短距離界でもトップクラスでは」とマジメな顔で言った。

 いまなお多くの人が松井稼頭央の鮮烈デビューとして記憶するのが、1996年の日米野球であろう。当時の注目は、オリックスイチロー巨人松井秀喜と売出し中のバッターが、野茂英雄をはじめとする全米オールスターズ相手に、どのような活躍をするか、だった。

 もちろん、この2人も十分に活躍した。しかし、それ以上に脚光を浴びたのが、第5戦で田中幸雄日本ハム)の代役として急きょ招集された西武の“スピードスター”、21歳の松井稼頭央だった。

 初出場の試合に加え、第6、8戦と3試合で1試合3安打。通算18打数10安打、打率.556、5盗塁をマーク。遊撃守備でもファインプレーを連発した。

 全米のダスティ・ベイカー監督(サンフランシスコ・ジャイアンツ監督)も「スピードも肩もあって、いいリードオフマン」と称賛。アメリカに連れて帰りたい選手は、とお約束の質問を振られた際には「断然、マツイ(松井秀喜)、そしてリトル・マツイ」と答え、その後、松井がメジャー関係者に“リトル・マツイ”と言われるきっかけとなった。

 さらに、ブレークを加速させたのが、97年1月2日に放映されたTBSの人気番組『筋肉番付』。ハンサムで少しヤンチャそうな顔、ユニフォーム越しでは分かりにくかった体操選手のような筋肉、そして驚異的な身体能力を見せつけ、優勝。若い女性ファンを中心に人気が爆発した。実は、この出演も同僚・高木大成の代役だったというから面白い。

「日米野球もそうですが、『筋肉番付』の反響はすごかったですね。ただ、あの後、たくさんのファンレターをいただいたんですけど、『私は野球の実績とか、松井さんが去年どれだけ打ったとか、西武が何位とか知りません。スポーツ番組を見てファンになりました』というのが多いんですよね。今年は自分の職業で名を売りたいですわ」

 翌春のキャンプのインタビューで松井が苦笑いしながら話していた。まさに時の人になっていた――。

ケガに苦しんだ高校時代、スイッチの道へ


高校時代、甲子園のマウンドを踏んだが、ケガも多かった


 少年時代から野球、野球の毎日だった。運動神経は抜群で、PL学園高でも1年生の秋から背番号11をもらい、2年春のセンバツ甲子園には背番号1でベンチ入りした。

 ただ、当時ヒジを痛めており、準々決勝まで登板はない。その試合も痛み止めの注射を打って先発のマウンドに上がったが、3回途中2失点で降板している。

「その後も肩、腰とやって、きちんと投げられたのは、高校3年の夏だけです(大阪府大会の決勝で敗退)。振り返ってみると、キャッチボールもろくにできず、あとは陸上部みたいに走ってばかりでしたね。僕は、本当は長距離を走るのが苦手なんですが、高校時代はそういう体になったのか、結構平気でしたよ」

 数々のケガは、強過ぎる筋力に体がついてこなかったこともある。

 この松井の潜在能力に注目したのが、12球団一のスカウト網を誇る西武だった。

 93年秋のドラフトで3位指名。投手ではなく、野手としてだった。開幕までに、松井は登録の漢字を本名の「松井和夫」から「松井稼頭央」にしている。ケガなく、先頭に立って頑張りたいという意味だった。

 守備位置はショートに回ったが、当時の二軍監督で、巨人V9時代の名遊撃手でもある黒江透修が、その身体能力、特に強肩に驚いた。三遊間深いところからの送球が、地を這うような低さから伸びてきて、西武第二球場で遠投テストをした際には、120メートル先のバックスクリーンを越え、測定不能となった。

 ただ、身体能力だけで務まるほど、プロの世界は甘くない。1年目は一軍出場なし。守備は悪送球が多く、とても一軍で使えるレベルではなかった。それでもイースタンで90試合に出場し、打率.260、4本塁打、11盗塁。野手転向1年目の高卒ルーキーとしては十分及第点だ。

 当時は右打ち。2年目の95年マウイ・キャンプの際、谷沢健一コーチから「1年間、遊びでいいから左(打ち)を練習しろ」と言われた。スイッチ転向というわけではなく、右腕の使い方が課題だと感じた谷沢コーチが、その矯正のために出した指示だった。松井自身もリフレッシュする際の遊び感覚でやっていた。ただ、「意外といい。逆にクセのない素直なスイングができるんだな」と好感触を持っていたという。

 その年は、後半戦から一軍の試合に出て69試合出場。21盗塁で盗塁刺はわずか1と足でアピール。ただ、打率は.221、特に右投手に打率.190と苦しんだ。

「だったら、一塁に近い左打席に立って、足を生かして、10回のうち2回でも内野安打を狙ったほうがいいのではと思ったんです」

 首脳陣の考えも同じだった。本格的には、そのオフ、ウィンター・リーグに参加してからだ。首脳陣から「左で打たせてもらえ」と指示され、向こうの監督に許可をもらったが、「あまり打てず、禁止された」と笑う。その後、ウエート・トレで腰を痛めたこともあり、急きょ帰国。秋季キャンプに合流すると、新任の土井正博コーチから「左で練習しろ」と言われ、そこからスイッチヒッターへの道がスタートした。

球宴で古田から5盗塁


97年のオールスターでは2試合で計5盗塁を決めた


 96年、東尾修監督は松井を開幕からスタメンに抜擢。だが、序盤はまったく打てなかった。

「4、5月ですかね。野球人生の中で一番悩んだと思います。なんで打てへんのって、ずっと思っていた。東尾さんが我慢強く試合で使ってくれました。僕も『なんとかせな』と思って、早出特打ちをしました。東尾さんにはホント感謝しています」

 夏場から調子を上げ、終わってみれば打率.283、盗塁はリーグ2位の50盗塁をマークしている。そのオフ、あの日米野球、『筋肉番付』があったわけだから、野球ファンにしてみれば、松井は「すでにシーズン中にブレークしていた選手」になる。

 97年には背番号を『32』から『7』へ。黄金時代のショート、石毛宏典も着けていた番号だが、実は、石毛を意識したわけではないという。

「僕は奇数が好きなんですよ。しかも1ケタじゃないですか。石毛さんの後、ジャクソンが着けていたのが、ちょうど退団したので、欲しいなと思ったんですが、直接言えなくて。そうしたら、新聞記者の人とそんな話をしていたのが記事になって球団の人に伝わり、もらえることになったんですよ」

 同年、金髪をトレードマークに、初の打率3割、62盗塁で盗塁王にも輝いた。守備範囲が広く、華麗なショート守備も光り、ゴールデン・グラブ賞も手にしている。それまでチームの象徴だった清原がFAで抜けたシーズンだったが、東尾監督は松井をはじめ、大友進、高木大ら機動力のある若手選手を中心にした野球に切り替え、優勝を飾った。

 この年、初出場の球宴でも伝説を作る。第1戦でヤクルトの捕手・古田敦也を向こうに回し、史上初の1試合4盗塁。さすがの古田も「止めようがない。これはお手上げです」と語っていた。第2戦でもやはり古田相手に1盗塁を決め、これまたシリーズ5盗塁の新記録を打ち立てている。さらに、試合前のスピードガンコンテストでも149キロを記録。まさに“球宴ジャック”である。

徐々に進化していったバッティング


2002年にはトリプルスリーを達成し、リーグ優勝に貢献


 向上心の塊でもあった。試行錯誤を重ね、当初は“当てるだけ”だった左打席も徐々に力強さを増していく。2年連続盗塁王となった98年には「振り切るスイング」を意識し、猛打賞21回を記録。2年連続リーグ優勝に貢献し、MVPにも輝いている。さらに99年にはイチローに一歩及ばなかったが、リーグ2位の打率.330、32盗塁で3年連続盗塁王。ホームランも初の2ケタ、15本を放ち、パ・リーグの顔と言える選手に成長した。

 サイクルヒットも放った2000年にはチーム最多の23本塁打に加え、二塁打、三塁打はリーグ最多で、長打率.560、打点も90まで積み上げた。ウエートを重視したことで年々パワーがアップ、体も大きくなっていった。意識しなくても飛距離も確実に出るようになっていったのだ。01年にはほぼ三番に定着し、それでも盗塁は26、しかも失敗ゼロというのがすごい。

「僕はホームランバッターじゃないですから、そちらは気にしていないけど、盗塁にはこだわりがありますよ。ただ、数じゃないですけどね。チームに勢いを与える盗塁をしたい。それに僕は打って、守って、走って、という中で、自分のリズムを作っていくタイプですからね」

 4年ぶりの優勝を飾った02年は伊原春樹新監督に言われ、慣れ親しんだ一番打者に戻っているが、193安打でリーグ最多安打。5試合連続本塁打、2試合連続サヨナラ弾もあった。終わってみれば、打率.332、36本塁打、33盗塁でトリプルスリーも達成している。

 03年には7年連続3割台、33本塁打とバットでも好調を維持しているが、松井は、それ以上に8年連続全試合出場、1143試合連続出場を誇る。ただ、この間、ケガがなかったわけではない。

「小さなケガはいくらでもあった。だけど、高校のとき、ケガだらけで満足にできなかったので、どうしようもないのは仕方ないけど、ちょっとでも大丈夫なら出たいんです」

 そのオフ、FA宣言し、メジャー・リーグのメッツに移籍。開幕戦からスタメンに入り、初打席で初球ホームランを放ち、全米を驚かせた。

 09年、アストロズ時代には日米通算2000安打も達成。3球団を渡り歩き、通算615安打。山あり谷あり、波乱万丈の7年間だった。

「いい思い出も悪い思い出もある。1年目の開幕戦のホームランもそうですし、ワールド・シリーズに出場したこと、マイナーに落ちたこと。ただ、振り返ると、すべてが自分にとってプラスになっていますね」

 10年オフに、星野仙一監督から「新しい歴史を作ろう」と口説かれ、楽天で日本に復帰した。松井が西武在籍時には影も形もなかった球団だ。

 楽天でもショートのレギュラーになり、13年には勝負強いバッティングで楽天の球団初優勝&日本一に貢献した。

 そして、2017年11月17日、西武復帰が決定。松井稼頭央の野球人生はまだ続く。

写真=BBM
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