プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は11月24日だ。
1996年10月5日、
西武球場でのシーズン最終戦の後、
オリックスの
ニールに1本差で本塁打王のタイトルを逃した西武の
清原和博は帽子、リストバンド、さらにスパイクまでファンにプレゼントした。
このときすでに気持ちは決まっていたはずだ。
11年前、ドラフトで指名されずにかなわなかった夢、
巨人入りを、今度は自分が勝ち得た権利、FAでかなえると……。
西武・
東尾修監督も慰留の話し合いの後、「入団の経緯や日本シリーズの涙もあったが、初恋のような気持ちがあるんだろうね」とあきらめ顔で語っている。
しかし11月13日、すんなり1回で決まると思われた巨人との第1回目の話し合いで、事態は紛糾する。
思ったより低かった金額評価もそうだが、出席した球団代表は終始「そんなに来たければどうぞ」的な雰囲気を崩さず、ドラフト時、1位指名を約束しながら回避したことへの謝罪を求めても答えず。一気に清原の熱が冷めた。
一方で15日に交渉した
阪神は巨人以上の条件を提示し、さらに
吉田義男監督が「タテジマのユニフォームをヨコジマにしても」と強烈な口説き文句。清原も一時は阪神入りを決めかけていたという。
しかし、その後、母親の「あんたの夢は何だったの」の言葉で変わった。あらためて少年時代の夢、巨人への思いがよみがえったのだ。
20日、2度目の交渉ではフロントが頭を地面にこすりつけんばかりに謝罪。長嶋茂雄監督からの「僕の胸に飛び込んでこい」からもメッセージをもらった。ここからは早い。
11月24日は、長嶋監督同席のもと、巨人の球団旗の前で清原の入団会見があった日だ。
「小学3年から野球を始めて、巨人はそのときからずっと僕の心にありました。プロ11年を振り返ると、西武に縁あってお世話になりました。これからはそれを忘れ、折り返し半分の野球人生で勝負したい。命がけでやります」
西武時代、「どんなスランプ時も減らなかった」という体重が減るほど悩みに悩んだ末、夢にまで見たユニフォームにソデを通した清原。しかし、これはいばらの道のスタートでもあった。
写真=BBM