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背番号物語

【背番号物語 序章03】中日「独特な変遷を見せる竜の系譜」

 

背番号は選手たちの「もうひとつの顔」だ。ある選手が引退しても、またある選手がその「顔」を受け継ぐ。その歴史を週刊ベースボールONLINEで紐解いていこう。

エースナンバー「20」



 巨人阪神に続いて創設された中日だが、その開花は2リーグ分立を経た1954年。19年目にして輝いた、世に言う“涙の日本一”だ。このときのエースで、まさに立役者となった“フォークボールの神様”杉下茂の背番号が「20」。永久欠番となってもおかしくない功績だったが、「20」は中日のエースナンバーとして受け継がれていくことになる。

 61年、連投に次ぐ連投で「権藤、権藤、雨、権藤」が流行語ともなった権藤博も「20」。V9巨人に牙をむいた星野仙一も、驚異の快速球で“スピードガンの申し子”と呼ばれた小松辰雄も、99年のリーグ優勝に貢献したクローザーで“韓国の至宝”宣銅烈も「20」だ。星野と小松は、もともと違う番号を着けていたが、その活躍で「20」に“出世”したパターンだ。

 近年では、現在はソフトバンクでプレーしている中田賢一を経て、ドラフト1位で2015年に入団した野村亮介が着けていたが、故障に苦しめられた野村は惜しくも17年限りで戦力外に。次の「20」は、どんな投手の背中に輝くのだろう。その背中には栄光の背番号とともに、低迷を続ける強竜の復活という重責が背負わされることだろう。

 また、左腕のエースナンバーとされているのが「21」。Vイヤーの74年に20勝を挙げた松本幸行の存在が大きい。

 一方で、2つの背番号が永久欠番となっている。創設期の中日には養成選手制度というものがあり、このとき中学生ながら東京からテストを受けて入団したのが西沢道夫。史上最年少で一軍登板を果たすなど戦前は投手として、戦後は打者として活躍した。20勝と40本塁打をマークしたのは日本球界で唯一だ。

 西沢は14、5、17、15と背番号を変えたが、最後の「15」が球団初の永久欠番となった。ちなみに、日本球界の背番号0は83年に広島長嶋清幸が着けたのが最初だが、養成選手時代の西沢が「0」を着けていた、という説もある。続いて、戦前は捕手で41年には本塁打王にも輝き、戦後は投手としても活躍した服部受弘の「10」。ともに投打の二刀流で結果を残したレジェンドだ。

たびたび背番号が変わる


中日・谷沢健一


 エースナンバーが「20」であること以外、1ケタが野手の背番号、10番台が投手の背番号、などといった一般的な傾向は踏襲している。2004年に落合博満新監督の下、大幅に背番号が変更されて話題となったが、もともと背番号の変更が多いのが中日の特徴だ。

 背番号変更で飛躍したのが、長らく打率3割の壁に苦しんでいた谷沢健一。「14」をひっくり返して76年に「41」としたところ、2位との差わずか6糸で首位打者に。逆に、その「41」を一貫して着け続けているのが11年にセットアッパー初のMVPに輝いた浅尾拓也だ。近年は右肩痛に苦しみ、17年の一軍登板は3試合のみ。谷沢もアキレス腱痛に苦しんだが、奇跡の再起を遂げている。浅尾も、このままでは終わらないはずだ。

 背番号の変更が、その背番号よりもトレードマークとなっていた、と言っても過言ではないのが森野将彦だ。移籍によって変更を繰り返す例は少なくないが、入団時から7、8、16、8、31、30、7と渡り歩き、中日ひと筋を貫いて17年限りで現役引退、コーチに。今後も同じユニフォームで、たびたび違った背番号を着ける森野の姿を見ることができるかもしれない。

 逆に若手時代、背番号の変更を断り続けたのが左の鉄腕・山本昌だ。「21」への“昇格”を断り、「34」で中日ひと筋、32年もの長きにわたってプレーを続けた。「34」は400勝投手・金田正一(国鉄ほか)の背番号でもある。同じ左腕として、金田に勝るとも劣らない印象を残した。

写真=BBM
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