近年は少なくなってきたが、プロ野球の長い歴史の中でアッと驚くようなトレードが何度も行われてきた。選手の野球人生を劇的に変えたトレード。週刊ベースボールONLINEで過去の衝撃のトレードを振り返っていく。 第3の外国人から主役へ
[1988年6月]
中日・ブライアント⇔近鉄(金銭)
1988年6月7日、それまで42試合で打率.303、7本塁打をマークしていた近鉄の
リチャード・デービスが麻薬不法所持で逮捕。27日、解雇が決まった。主砲の大きな穴をどう埋めるか。近鉄球団のフロントの動きは早かった。
同日、中日から金銭トレードでラルフ・ブライアントの獲得が決定。“デービス問題”の決着がつかない時点から
仰木彬監督、
中西太コーチらが西宮でのウエスタン、阪急対中日に出かけてブライアントを調査していたのだ。28日に支配下選手登録を済ませ、翌29日には都内ホテルで入団発表が行われた。
ブライアントは中日の“第3の外国人”だった。かつてドジャースから1位指名され3年間在籍したが、マイナーとのエレベーター生活だった。まだ27歳。4月、中日からの誘いを受けて日本行きを決めた。だが、中日にはゲーリーと
郭源治がおり、どちらも好調をキープ。ファーム暮らしを余儀なくされた。近鉄への移籍は、ブライアントにとって渡りに船だったのは間違いない。
ブライアントは入団発表のあった29日に一軍登録され、同日の
日本ハム戦(東京ドーム)に「六番・左翼」でスタメン出場したが、その効果はいきなり表れた。近鉄は直前の2試合で連続シャットアウト負けを喫しており、20イニング無得点。ところが4回一死一、二塁で打席に入ったブライアントは一軍2打席目で
津野浩のストレートをたたいて左中間に逆転2点二塁打を放ったのだ。チームにとって24イニングぶりの得点。ブライアント効果どころか、ブライアントのバットがチームを救った。
「中日では一軍で使ってもらえるチャンスがなかったので、近鉄バファローズの一員となることができて、うれしい。デービスの穴を埋めることができるかどうか分からないが、とにかく自分の持っているものをすべて出し切って、チームのために役立ちたい」
その後もブライアントは打ちまくった。「3連勝以外、優勝争いに生き残る道はない」(仰木監督)ところまで来ていた7月1日からの
西武3連戦はブライアントの打棒で3連勝。8月には22試合で13本塁打、しかも1試合に2ラン3発を2度記録。文句なしの月間MVPに選ばれた。
短期間のスランプと大爆発の繰り返し。シーズンを通して3三振以上した次の試合には、打率.361、5本塁打ときっちり働いた。勝負強さとノリの良さで、すっかりデービスのことを忘れさせてくれたブライアント。背番号16の加入がなければ、この年の「10.19」はなかった。
写真=BBM