背番号は選手たちの「もうひとつの顔」だ。ある選手が引退しても、またある選手がその「顔」を受け継ぐ。その歴史を週刊ベースボールONLINEで紐解いていこう。 2球団で永久欠番
「ミスターG 栄光の背番号3」
1974年、巨人の長嶋茂雄が現役引退。引退セレモニーで、後楽園球場のバックスクリーンに、こう大書された。長嶋のスピーチとともに、記憶に刻まれているファンも少なくないだろう。翌75年から監督に就任した長嶋は「90」を着け、現役時代の「3」は永久欠番に。現在も「3」は長嶋の代名詞で、監督2期目の2000年に背番号を「33」から「3」に変更したときも大いに話題となった。
広島でも“鉄人”
衣笠祥雄の「3」が永久欠番。2球団で永久欠番となっている背番号は「3」のみだ。他のチームの「3」も、打線の主軸を担う強打者が多い。
【12球団主な歴代背番号「3」】
巨人
中島治康、
千葉茂、長嶋茂雄★
阪神 浅越桂一、
長崎啓二、
八木裕、
関本健太郎(賢太郎)、
大山悠輔☆
中日 国枝利通、
中利夫(三夫、暁生)、
平野謙、
立浪和義、
高橋周平☆
オリックス 石田光彦、
山下健、
長池徳二(徳士)、
石嶺和彦、
安達了一☆
ソフトバンク 樋口正蔵、
定岡智秋、
佐々木誠、
松中信彦、
松田宣浩☆
日本ハム 大下弘、
富田勝、
落合博満、
白井一幸、
田中賢介☆
ロッテ 榎本喜八、
弘田澄男、
西村徳文、
サブロー、
角中勝也☆
DeNA 藤井勇(秀郎)、
箱田淳、
野口善男、
高木豊、
梶谷隆幸☆
西武 大下弘、
土井正博、
清原和博、
中島裕之、
浅村栄斗☆
広島
辻井弘、
平山智、
寺岡孝、
早瀬方禧、衣笠祥雄★
ヤクルト 箱田弘志(淳)、
徳武定之、
ヒルトン、
ラミレス、
西浦直亨☆
楽天 吉岡雄二、
リンデン、ルイーズ、フェルナンデス、
マギー (☆は現役、★は永久欠番)
さかのぼる栄光の歴史

ヤンキースのベーブ・ルース(写真=Getty Images)
楽天だけは例外と言えるだろう。吉岡雄二は近鉄時代から着けていたもので、その後は外国人選手の背を転々。初の日本一に貢献したマギーが1年で退団した後は、不発に終わる外国人選手の系譜に。現在は欠番だ。
ドラフトで事件となった3人の選手も「3」だ。85年秋のドラフト後に記者会見で涙を流した清原和博は西武で「3」に。古くは69年秋のドラフト指名を拒否して“三角トレード”で大洋を経てヤクルトへ入団する形となった
荒川堯も2球団で「3」だった。その後のヤクルトでは
長嶋一茂も父と同じ「3」。大いに期待されて入団した2選手だったが、大成しないまま終わった。そして78年秋のドラフト、“空白の一日”で巨人へ入団した
江川卓も、阪神に籍を置いていたときは「3」だ。
ちなみに投手では、大洋の
平松政次が1年目だけ「3」を着けて、巨人で同じく「3」の長嶋との対決も実現している。平松は少年時代から長嶋の大ファンだったという。
ただ、長嶋のプロ入り以前から「3」は他のチームでも強打者のナンバーだった。戦後復興の象徴となった“青バット”の大下弘や打撃の天才・榎本喜八らも、球史に名を刻む大打者だ。
しかし、その伝説の幕開けは、さらに歴史をさかのぼる。メジャーで初めて本格的に背番号が採用されたときに「3」を着けたのが、“世界のホームラン王”ベーブ・ルース(ヤンキースほか)だ。34年の日米野球で来日したときも「3」で豪打を連発。このとき日本代表に参加していた中島治康が巨人の初代「3」となり、その次の「3」が戦後に着けた千葉茂で、その千葉から「3」を譲られたのが長嶋だった。「3」は、巨人の長い歴史において、わずか3人だけだ。
写真=BBM